HIVケアカスケードと「90-90-90」

HIVの流行を制御するためのグローバルな戦略目標

東京大学名誉教授、日本医療研究開発機構 岩本 愛吉

1.抗HIV療法の進歩と90-90-90目標の提案

 初めて後天性免疫不全症候群(エイズ)の症例が報告されたのは米国で、1981年のことでした。1983年にはエイズ患者からヒト免疫不全ウイルス(Human Immunodeficiency Virus: HIV)が分離され、その後エイズの原因ウイルスだと認められました。1987年に最初の抗HIV薬AZTが販売され、その後も次々と新しい薬が開発されました。日本では、1996年に最初のプロテアーゼ阻害薬が製造承認され、3種類の薬を組み合わせる強力な抗HIV療法が可能となりました。その後も抗HIV薬は着実に開発・改良され、2015年には一日一錠(3種類の薬を含有)、食事時間を気にせず飲める薬が登場しました。さらに近年、本稿の主題と密接に関係する重要な研究成果が示されていますので、項目ごとに説明致します。

1)抗HIV療法の持つ感染予防効果が証明された。

 母親がHIVに感染していても、抗HIV薬によって母子感染を予防できることから、感染者を治療することで新たな感染を予防できると予測されていました。一方だけが感染者のカップルを対象にした大規模な国際的前向き試験(HPTN052試験)の中間結果が2011年に発表され、「治療が予防効果も持つ(Treatment as Prevention:T as P)」、という概念が証明されました(文献1)。

2)CD4陽性T細胞数が高い人も治療のメリットを得られる。

 国際的な大規模前向き試験(START試験)により、CD4陽性T細胞数が高い人(500/μL以上)も抗HIV療法による健康上のメリットを得られることが示されました(文献2)。

3)ケアカスケード研究の重要性が認識される。

 抗HIV療法が進歩し、HIV感染者(以後感染者)の生命予後は著しく改善しました。しかし、感染者数を分母にして(a)診断率、(b)医療機関へ紹介された率、(c)定期受診率、(d)治療を受けている率、(e)治療でウイルス抑制を達成している率など調べると、各段階ごとに落ち込みが見られ、「ウイルス抑制達成者は感染者の
20%程度に過ぎない」というショッキングな調査研究が、2011年に米国で発表されました(文献3)。診療の段階ごとに数字がカスケード(階段状の滝)のように落ち込むので、「HIVケアカスケード」と呼ばれるようになりました。また、この研究では、どれか一つの段階を90%達成しても改善は少ないが、診断率、治療率、ウイルス抑制達成率を全て90%達成すると、感染者全体の治療の成功率を格段に引き上げることができると示唆されました。
 2014年に国連合同エイズ計画(UNAIDS)のミッシェル・シディベ事務局長が、HIVの流行を制御する戦略として、2020年までに3つの90%を達成する目標(90-90-90)を掲げました(文献4)。90-90-90目標とは、(i)感染者の90%以上が診断を受け感染を自覚すること、(ii)診断を受けた感染者の90%以上が治療を受けること、(iii)治療中の感染者の90%以上で血中ウイルス量を抑制すること、を目指すものです。つまり、ケアカスケードの落ち込みを少なくし、高い数値で維持しようという戦略目標です。
 ケアカスケードや90-90-90目標で示される数字を見る場合には、くれぐれも何を分母にしているかにご注意下さい。当初の米国での研究やその後発表された研究の多くでは、「その地域や国における推定感染者数」が分母になっています。一方、2014年にUNAIDSが戦略目標として提唱した90-90-90目標では、最初の90の分母が「感染者数」、2番目の90の分母は「診断を受けた感染者(既診断者)」(1番目の分子)、3番目の90の分母は「治療中の感染者」(2番目の分子)と、1つ前のカスケードの分子が次の分母になるように設定されています。つまり90-90-90の目標が達成されると、全感染者を分母とした最終的なケアカスケードが73%(0.9×0.9×0.9×100=73)の達成率となるということです。

2.世界各地の90-90-90目標の現状は?その次の目標は?

 UNAIDSは、2017年に世界の国や地域に関する90-90-90目標の中間発表を行いました(文献5)。グローバルレベルでの推定値は70-77-82 、即ち感染者の70%が診断を受け、診断を受けた感染者の77%が治療を受け、治療を受けている感染者の82%がウイルス抑制を達成している(ウイルス抑制達成者)、と推定されました。集計すると全感染者の44%(0.70×0.77×0.82×100=44)でウイルスが抑制できている、と推定されたことになります。
 世界を見渡してHIV流行の現状を比較し、対策の成果や目標値を設定する際には、(1)東部及び南部アフリカ、(2)西部及び中央アフリカ、(3)中東及び北アフリカ、(4)西部及び中央ヨーロッパと北米、(5)ラテンアメリカ、(6)カリブ海、(7)東ヨーロッパ及び中央アジア、(8)アジア太平洋の8つの地域分けで行われることが多いです。図1に地域ごとの推定値を示します(文献5)。HIV流行が世界中で最も深刻な影響を及ぼしてきた「東部及び南部アフリカ」では、抗HIV療法のスケールアップが奏功し、2016年のエイズ関連死亡者は42万人で、2000年より42%も減少しました。その「東部及び南部アフリカ」の推定値は76-79-83で、感染者の約50%(0.76×0.79×0.83×100=50)がウイルス抑制を達成していると推定され、カリブ海を凌駕し、ラテンアメリカに匹敵する状況です。対策がさらに推進されれば90-90-90目標を達成できると期待されています。現在ロシアや中東でHIV流行に歯止めがかかっていませんが、ロシアを含む「東ヨーロッパ及び中央アジア」や「中東及び北アフリカ」では2番目の90、即ち治療の普及が劣悪で、感染者のうちウイルス抑制が達成されているのは16-22%にすぎません。総じて見れば、日本の位置する「アジア太平洋」も治療の普及に最も問題があるようです。一方「西部及び中央アフリカ」では1番目の90が低く、検査診断が行き渡っていないことが推察されます。先進工業国が集まる「西部及び中央ヨーロッパと北米」はさすがに高い達成率を示しており、地域として90-90-90目標を期間内に達成することが期待されます。
 90-90-90目標の各段階を達成していると称する国はデンマークとスウェーデンですが、ウイルス抑制の割合が全感染者の73%以上という基準を達成した国は、デンマーク、スウェーデン、英国、アイスランド、カンボジア、シンガポール、ボツワナなどです。ただし、自己申告と言っていい状況です。UNAIDSはさらに、2030年までに各段階を95%に上げる95-95-95目標を提唱しています。

2.日本では90-90-90目標はどうなっているのか?

 日本のHIVケアカスケードを出すには、感染者数を推定する必要があります。感染者の総数は、自らの感染を知らない人(未診断者)と既診断者の合計と考えられます。筆者と共同研究者は、日赤の初回献血者のデータを用いて未診断者数を推定しました(文献6)。単年度では陽性数が少ないため、2011年から2015年までの5年間
の男女別、年齢階級別(5歳ごと)献血数と陽性数を平均し、2015年10月の国民人口統計(総務省発表)による男女・年齢階級別人口とかけ算して得た数字を、2015年における日本の未診断者数と推計しました(3,830人)。日本在住の既診断者の数は、2016年度のエイズ発生動向調査年報を用いて、累積報告数から死亡者数、外国籍で離日したと考えられる人の数を引いて算出しました(22,840人)。この2つの数字から、2015年における日本で生活する感染者の総数を3,830+22,840=26,670人と推定しました。
 日本では、HIV陽性の報告は約45%が保健所等の検査施設、残り約55%が医療関係機関からあがってきます。感染症法で報告義務が謳われており、筆者達の発表した論文では、日本では診断されたHIV陽性者は100%匿名報告され、医療機関に紹介されているものとして取り扱いました(文献6)。医療機関を受診している感染者のデータについては、厚生労働省医療体制班(横幕班)が自治体のエイズ担当部署から全国のエイズ拠点病院に行ったアンケート調査の結果を頂きました。全国382の拠点病院のうち356病院(93%)という高回答率で受診者数の報告がありました。定期受診者数(20,615人)、治療中の患者数(18,921人)、ウイルス抑制達成者と主治医が判定した人数(18,756人)を用いてケアカスケードを算出しました。
 左の図は、日本で生活する推定総感染者数(26,670人)を分母にしたケアカスケードを示しています。感染者のうち既診断者は86%、即ち約14%の感染者が自分の感染を知らないと推定されました。まだまだ自分の感染を知らない感染者が多いと推定されます。「既診断者→定期受診者」のカスケードでは9%(86-77)の落ち込みが見られましたが、今後さらに調査が進めば、実際日本で「定期受診」している人の数はもっと多いのではないかと考えています。東京ではクリニックを受診する人がかなり存在しますが、人手の少ないクリニックに負担をかけない、クリニックと拠点病院双方に通う人の重複カウントをどう避けるかなどの問題があり、今回はクリニックを調査に含みませんでした。「定期受診者→治療中」のカスケードも6%(77-71)減少していることから、日本ではまだまだ全員治療が一般化していないようです。日本のケアカスケード調査結果の最も大きな特徴は、「治療中→ウイルス抑制達成」の落ち込みがほとんど無いことだと思います。レベルの高い医療インフラ、抗HIV薬の早期承認により新薬が次々と導入されてきたこと、拠点病院でガイドラインに沿った医療が行われていることなどによるものではないでしょうか。
 UNAIDSの90-90-90目標に沿って日本のケアカスケードを見てみると(図2の黒丸内数字)、86-83-99となりました6。目標値には至っていませんがかなり高い値であり、上記のようにクリニックを受診する人達をカウントしていないことを考えると、2番目のカスケード(既診断→治療中)はもっと数値が高い可能性があります。一方、3,830人とした未診断者数はもっと多いのではないか、と考える人もあるかと思います。

4.まとめ

 ケアカスケード調査は、詳細な方法が規定され、標準化されているわけではなく、今後も継続することが必要だと思います。例えば未診断者数をどのように算出しているか、Patients retained in careとは定期受診で良いか? 定期受診の定義は? People virally suppressed(ウイルス抑制達成)とは検出限界以下か? 50コピー/ml以下か? 200コピー/ml以下でも良いのかなど。日本のケアカスケード調査についても、献血データ以外による未診断者の推定値はどうか、クリニックの調査など新たな視点を加えながら継続した調査が必要ですが、診療現場への負担が重くならないような配慮も必要でしょう。予想されていたことですが、少なくともウイルス抑制という視点から見ると、日本の医療現場におけるケアは、デンマークやスウェーデンなど北欧の国と肩を並べる高いレベルを達成しています。国民皆保険、自立支援医療の賜とも言えますが、このレベルを落とさぬようにしながら総合的な予防と治療の推進を図っていくべきだと思います。また、最近の梅毒の報告数増加などから、HIVの感染予防だけを考えるのではなく性感染症の予防、セクシャル・ヘルスの増進を全体的に考える必要があるでしょう。

岩本 愛吉(東京大学名誉教授、日本医療研究開発機構)

<文献>
日本医療研究開発機構・戦略推進部長。東京大学医科学研究所・教授(1994-2015)、東京大学名誉教授(2015)。厚生労働省エイズ動向委員長、日本エイズ学会理事長・会長、国際エイズ学会アジア太平洋地域代表、日本ウイルス学会会長、日本感染症学会理事長・会長、日米医学協力委員長、WHO HIV肝炎専門家会議委員、WHOエボラ専門家会議委員などを歴任。中国科学院国際科技合作賞、中国国家友誼賞、中国国際科学技術合作賞、中国教育部海外名師、広州市栄誉市民、雲南省重点外国専家。

1. Cohen MS et al, Prevention of HIV-1 infection with early antiretroviral therapy. New Engl J Med 365:493-505, 2011.
2. Lundgren JD et al, Initiation of antiretroviral therapy in early asymptomatic HIV infection. New Engl J Med 373:795-807, 2015.
doi:10.1056/NEJMoa1506816.
3. Gardner EM et al, The spectrum of engagement in HIV care and its relevance to Test-and-Treat strategies for prevention of HIV infection. Clin Infect Dis 52:793-800, 2011. doi: 10.1093/cid/ciq243.
4. UNAIDS 90–90–90-An ambitious treatment target to help end the AIDS epidemic
http://www.unaids.org/en/resources/documents/2017/90-90-90(2017年7月28日閲覧)
5. UNAIDS  Ending AIDS: progress towards the 90–90–90 targets
http://www.unaids.org/en/resources/documents/2017/20170720_Global_AIDS_update_2017(2017年9月16日閲覧)
6. Iwamoto A et al, The HIV care cascade: Japanese perspectives. PLOS ONE. doi.org/10.1371/journal.pone.0174360. March 20, 2017.

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