日本におけるHIV/AIDSの歴史「薬害HIV感染」

放送大学 井上 洋士

「薬害HIV感染」とは何でしょうか。いつ、どのような経過をたどったのでしょうか。
それは今のHIVの医療体制や福祉制度の充実と、どう関係しているのでしょうか。

「薬害エイズ」という言葉を皆さんは聞いたことがありますでしょうか。
「薬害エイズ」は、実はメディア用語として流通した言葉です。「HIVとエイズは違う」ということは、今では当たり前のように言われますが、「薬害エイズ」問題が大きくなりはじめた1980年代後半から1990年代初めは、まだ一般の方々は「HIV」という用語を知らない状況でした。一方で「エイズ」という言葉は、「海外から持ち込まれる恐怖の病」という色彩のもと、よく使われていました。なので、「薬害エイズ」という言葉は、少なくとも私自身は決して使いません。ここでも「薬害HIV感染」という言葉を使いたいと思います。
それでは、なぜ「薬害HIV感染」について知っておいたほうがいいのでしょう。歴史の教科書に出てくるような出来事ということ以上に、何か意味があるのでしょうか。
実は、日本のHIV診療体制整備やHIV陽性者をめぐる福祉体制整備は、この「薬害HIV感染被害」が源で充実されました。もしかしたら、この出来事がなければ、整備される日は来なかったのではないか、そう思うほどに大きな影響を及ぼしたのです。
今の日本の医療体制や福祉体制はどうやって整備されたのか。なぜエイズ治療・研究開発センター(ACC)やブロック拠点病院ができたのか、なぜ身体障害者手帳が交付されるようになったのか。その根源にある「薬害HIV感染」について説明したいと思います。

血友病と血液凝固因子濃縮製剤

血友病は生まれながらに血液凝固因子が欠乏しているため、出血が止まりにくい病気(血液凝固異常症)です。治療を何もしなければ、傷口から出た血液が止まりにくく、どこかにぶつけたりすると皮下出血しやすく、関節内出血などの深部の出血が見られることが多く、障がいを残すことも多くありました。血友病は、血液凝固因子の欠乏の種類により、血友病A、血友病Bがあり、また不足している血液凝固因子の量も人により異なり、症状も人により大きく異なっています。
不足している血液凝固因子を補充するというのが、治療の基本です。1960年代初めくらいまでは、輸血くらいしか治療方法はなかったのですが、その後、不足している血液凝固因子を補う治療としてクリオ製剤というものが使用されるようになり、1970年代には米国から輸入された血液凝固因子濃縮製剤あるいは米国から輸入された血漿を原料として日本国内で製造された血液凝固因子濃縮製剤が多く使われるようになりました。
米国由来の血液凝固因子濃縮製剤(以下、「製剤」と述べるところもあります)は、出血したときに打てばいいというものだけでなく、出血を予防するのにも効果があることもあり、医師だけでなく患者や家族もとても使いたがる状況にありました。さらに1983年には、患者や家族が自分で注射できる「自己注射」というものが健康保険によって受けられるようになり、当時の血友病患者らは「夢の薬」と感じ、どんどん多くの方々が血液凝固因子濃縮製剤を使うようになったのです。製薬会社も強い売り込みをし、医師らも血液凝固因子濃縮製剤の使用を全面的に勧めることになりました。

なぜHIV感染が起こったのか

一方で、米国では、1980年ごろから、同性愛者の間によくわからない疾患が流行していることがわかってきました。これが、今でいうHIV感染症だったのです。
当時使われていた血液凝固因子濃縮製剤は、その原料となる血漿を米国などで調達していました。この原料血漿は売血によるものでした。多くの人の血漿を1か所に集めて作られるために、万一HIVに感染しているものが入りこむと、その血漿がすべてHIVに感染することになります。結果として、日本にもこの血液凝固因子濃縮製剤は到着し、多くの血友病患者らが使い、日本国内で1,400人ほどがHIVに感染することになりました。これが薬害HIV感染です。
では、なぜHIV感染が拡大したのでしょうか。
血液凝固因子濃縮製剤は、1983年に、米国では、加熱処理がなされるようになりました。もともとは肝炎対策として行われたのですが、米国ではHIV対策としても位置付けられ、加熱処理をしない血液凝固因子濃縮製剤は回収されたのです。
ところが日本では、加熱処理がされた製剤が承認されたのは2年後の1985年でした。さらに、HIV感染のリスクのある血液凝固因子濃縮製剤が回収されることはなく、1988年までHIVが混入している製剤が使われる続けることとなり、次々とHIV感染が広がることになってしまったのです。
さらに、当時の血友病医師らの多くは、HIV感染していることが判明したとしても、治療方法がないこと、カウンセリング体制が整っておらず心理的負担が大きくなること、などを理由に、基本的にHIV感染告知をしない方針を貫いており、それが理由でさらにHIV感染が広がることになったとされています。
ちなみに、肝炎対策もされることがなかったために、多くの血友病患者らがC型肝炎にも感染し、その後の健康管理に大きな影響を及ぼすことにもなりました。

エイズパニックと差別

1985年には、厚生省(現在の厚生労働省)が、日本人として初めてHIV感染した者がいると発表しました。ただし、第1号HIV陽性者は性感染者であったことから、血友病での薬害隠しをしようとする動きがあったのではないかとの指摘もあります。そして世間では、薬害を隠すかのごとくに、次々とメディアで「エイズ」がセンセーショナルに扱われ、「エイズパニック」という現象が日本の各地で起こるようになります。
「エイズパニック」をご存知ない方も今では多いのではないかと思います。当時は「エイズ」と聞いただけで、ちょっとしたことで感染すると勘違いされていた代表的な病いでしたが、その原因を形づくったのが「エイズパニック」といえるでしょう。たとえば、1986年にはフィリピン人女性がHIVに感染していることがメディアで報じられ、彼女の住まいのあった松本のナンバーをつけた車が市民から避けられたり、公衆浴場での外国人の入浴が全国的に拒否されたりしました。翌年には神戸市の日本人女性でのHIV感染が報道され、実名を流されたり、近い関係にあった人探しがされたりして、「日本人でも性感染する恐ろしい病い」というイメージを定着されてしまいました。こうして日本国内でのHIV陽性者やエイズに対する差別感や偏見は強く浸透してしまいました。
血友病患者に対しても同様であり、HIV感染の有無にかかわらず、病院が血友病患者の受診拒否をしたり、感染が広がるので学校には来ないでほしいといわれたりするなど、このころから明らかな差別を受けるようになったのです。
その後、厚生省は「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」(通称、エイズ予防法)を制定しようとしましたが、HIV陽性者を社会的に隔離・排除しようとしている法律であると血友病患者らが強く反発しました。その結果、血友病患者をHIV陽性者の報告対象から外すという玉虫色の修正案が出されて国会で可決成立し、1989年に施行されるに至りました。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、実は今でも「HIV感染者数」「エイズ患者数」の統計的な数字のなかに血友病患者でHIVに感染している人は含まれず、エイズ動向委員会で報告されるようになっています。当時の戦いの痕跡が今も残っているといえるでしょう。

裁判と市民運動

こうした厳しい状況のなか、血液凝固因子濃縮製剤によりHIV感染した血友病患者らは、国と製薬企業5社を被告として、HIV感染し被害を被ったことに対する損害賠償請求訴訟を起こすことになりました。1989年のことです。血液凝固因子濃縮製剤によるHIV感染の危険性が広く知られて米国では加熱処理した製剤が承認されていたのにもかかわらず、日本の厚生省や製薬企業らは、そうした危険性を知りつつも、輸入禁止もしなければ加熱処理を急がず、非加熱製剤の回収もせず、患者にも知らせることもなく、1,400人もHIV感染させた、という点が争われたのです。
これだけの差別感や偏見が強かった時代です。今よりももっとひどい状況だったといえるでしょう。だからこそ、裁判を始めるということは勇気がいることだったのではないかと思います。実際、裁判では、実名では呼ばれず、原告番号で呼ばれるという形がとられました。実名が公表されれば、どんな目に合うかわからないという配慮から実施された、初めての試みでした。一方で、国や製薬企業は、「患者にとって命綱であった製剤をストップすることはできず、リスクも予見はできなかった」と、決して自らの責任を認めようとはしませんでした。
その後、この裁判は大きな市民活動へと発展していくことになります。薬害HIV感染というものに対する市民の怒りは次々と全国へと広がっていきました。そのシンボル的な出来事は、1995年の「人間の鎖」と呼ばれるものでした。3,500人もの人々が、厚生省を取り囲んで抗議をしたのです。翌年1996年には3日間にわたる厚生省前での座り込み運動が行われました。この最終日に、当時の菅直人厚生大臣と、大阪・東京の原告団200人ほどが厚生省内で会談することになりました。ここで、いきなり菅直人厚生大臣が法的な責任を認める発言をし、原告に謝罪することになったのです。1996年3月29日に、7年にわたる裁判がようやく和解という決着に至ることとなったのです。

和解がもたらしたHIV医療体制と福祉体制の充実

和解では、次のような内容が含まれることとなりました。まず、エイズ発症者・死亡者を含み、血液凝固因子濃縮製剤によるHIV陽性者一人一人に和解金4,500万円が支払われることになりました。そして、HIV感染症の研究治療センターの設置、エイズ拠点病院の整備拡充、差額ベッド代の解消、HIV陽性者に対する身体障害者手帳の交付など、恒久対策として国は医療体制や福祉体制について、適切な措置をとるということになりました。特に、原告側は、血液凝固因子濃縮製剤による感染であろうが、そうでない感染であろうが、HIVに感染した人々すべてがこうした医療体制・福祉体制の恩恵を受けるべきであると強く主張したとされています。HIV感染症の研究治療センターの設置はその後、エイズ治療・研究開発センター(ACC)として、国立国際医療センター(現:国立国際医療研究センター)内に設けられるナショナルセンターがその役割を担うこととなりました。そして、HIV感染症に関する治療や研究、情報収集と提供、研修を行うことと定められました。さらに全国を8つの地域に分けて、各地にブロック拠点病院が設けられることとなり、高度な診療を提供しつつも、研究や研修、情報提供などで各地域の拠点病院を主導するような役割を担うことになりました。また、身体障害者手帳の交付は、HIV治療費が当時からすでに医療費が高額であり、お金のある人はなんとか生きながらえるが、お金がないと死にいくしかないという、HIV陽性者の状況を改善したいとする薬害HIV感染をした人々の願いを実現したものとなっています。身体障害者としてレッテルを貼られることを嫌う人が今でもいらっしゃいますが、当時は、たとえば難病に指定してもらうなど、他の選択肢をいろいろ検討したうえで、恒久的にサービスを受けられるという観点からベストなものが身体障害者手帳の交付であると判断し要求したと、原告団の中心人物の一人からは耳にしています。1998年に「ヒト免疫不全ウイルスによる免疫の機能の障害」による身体障害者認定が適用されることとなり、医療費減免や障害基礎年金などの手当て、障害者枠での就業などのサービスが初めて感染経路にかかわらず受けられるようになりました。
このように、薬害HIV感染をめぐる裁判での和解という決着が、日本のHIV医療や福祉の制度を大きく前進させたのです。

1981年6月 米国CDC(米国疾病予防管理センター)が、男性同性愛者5名のカリニ肺炎を報告(初のエイズ患者報告)
1982年7月 米国CDC、血友病患者5名がエイズ発症し、血液製剤に疑惑ありと発表
1983年2月 厚生省、非加熱血液濃縮製剤の自己注射の健康保険適用を承認
1983年3月 米国、加熱血液濃縮製剤を承認、非加熱血液濃縮製剤が大量に日本へ
1985年3月 厚生省、男性同性愛者のひとりを、日本人エイズ第1号と発表
1985年7月 厚生省、加熱第8因子濃縮製剤を一括承認、非加熱血液濃縮製剤の回収命令は出さず
1985年12月 厚生省、加熱第9因子濃縮製剤を承認
1986年5月 国際微生物連合が、病原体についてHIVとして呼称統一
1986年11月 松本エイズパニック
1987年1月 神戸エイズパニック
1987年2月 高知エイズパニック 血友病患者への差別始まる
1987年9月 厚生省、日本で初めての抗HIV薬であるAZTを承認
1989年2月 「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」施行
1989年5月 大阪HIV訴訟第1次原告提訴
1989年10月 東京HIV訴訟第1次原告提訴
1995年7月 厚生省を囲む運動「人間の鎖」を展開、3,500人参加
1996年2月 厚生省前日比谷公園での座り込み運動開催
1996年3月 東京・大阪HIV訴訟の和解成立
1997年4月 エイズ治療・研究開発センター(ACC)開設
「エイズ治療の地方ブロック拠点病院の整備について(通知)」発出
1998年4月 「ヒト免疫不全ウイルスによる免疫の機能の障害」による身体障害者認定適用
1999年4月 「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」施行
1999年8月 「薬害根絶誓いの碑」厚生省前に設置
2002年7月 安全な血液製剤の安定供給の確保等に関する法律(血液新法)成立

今も続く医療体制・福祉体制の充実への要求

医療体制や福祉体制は、たしかにいったんは整備されましたが、まだまだ不十分なところがあります。そのために、原告らHIV陽性者の意見を厚生労働大臣は継続的に聴取しなければならないとしており、いまでも大臣協議というものが年に1回以上行われています。そこでは、これまでに歩んできた医療や福祉の状況のうち、課題となるものを整理し、それらの改善を幅広く要求する形をとっています。また医療協議会も毎年開催されていて、医療体制の整備についても詳しい要求が提出されているのです。
さらには、遺族や家族へのケアという問題も依然として続いています。血友病をはじめ血液疾患のある患者への医療のあり方や血液事業のあり方も必ずしも十分であるとは言えません。さらに薬害再発防止に向けた取り組みや真相究明も、国主導では十分に行われているとは言えません。薬害HIV感染は、和解で決着がついたわけではありません。和解から、やっと救済が始まったわけです。そして和解から20年がたっている今でも、こうした細かな事項について要求し続けられています。そうしたなかでいまのHIV医療体制・福祉体制は維持され発展しているのです。

井上 洋士(放送大学)

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(保健学)。専門は健康社会学。千葉大学、三重県立看護大学などでの勤務を経て、現在は放送大学客員教授、株式会社アクセライト調査研究コンサルティング事業部研究員。HIV Futures Japanプロジェクト代表でもある。はばたき福祉事業団調査研究準備委員会、薬害HIV感染被害者(患者・家族)生活実態調査委員会、薬害HIV感染被害者(遺族)生活実態調査委員会などの委員をつとめ、薬害HIV感染被害者の実態把握と調査研究を精力的におこなっている。

薬害HIV感染に関する主な著書:
● HIV感染被害者の生存・生活・人生─当事者参加型リサーチから(有信堂)
●薬害HIV感染被害者遺族の人生(東京大学出版会)
●健康被害を生きる─薬害HIVサバイバーとその家族の20年(勁草書房)
●健康と社会(放送大学教育振興会)

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