ゲイ・バイ男性のセクシュアル・ヘルス 向上の取り組み

その30年と今後に向けて

名古屋市立大学 名誉教授 市川誠一

はじめに

 わが国のエイズ患者/HIV感染者の年次報告数は、1985年に6件を報告して以来増加が続いたが、2008年以降は1,500件前後で横ばいとなっている。これは日本国籍男性の同性間性的接触による感染が増加から横ばいに転じたことによるものである。HIV感染対策に重要なこととして、HIVや性感染症(STI)の予防啓発、検査と医療の提供、そしてHIV陽性者への支援があげられる。また、男性同性間の感染が大半を占めている現状から、セクシュアリティや同性間のセックスへの理解を促進し、HIV陽性者への偏見・差別をなくしていく取り組みも必要となっている。
 この30年のMSM(Men who have sex with men:男性とセックスをする男性)に向けたHIV感染対策を振り返り、今後について考察する。

ハッテン場調査(1996年)に対する反応

 1980年代後半、厚生省(当時)はHIV感染症の疫学研究班を構成し、日本のHIV感染の予防対策に関する研究を進めていた。研究班には男性同性愛者、性産業従事者、滞日外国人を対象とする「ハイリスク部会」が設けられていた。しかし、男性同性愛者等の当事者が参加する体制ではなかった。1995年、木原正博氏(現・京都大学教授)と私は、エイズ動向調査において男性同性間の感染が増加傾向にあったこと、東京からの報告が過半数だったこと、欧米先進国では男性同性間の流行が大きな問題となっていたこと、そして事前のハッテン場視察では感染予防が十分でなかったことから、男性同性間のHIV感染の疫学研究に取り組むことにした。
 1996年、私たちは男性同性間のHIV感染の現状を具体的に把握するため、新宿区保健所の協力のもとハッテン場調査を行った。それは、複数のハッテン場の個室の廃棄物を回収し、コンドーム使用状況を調査し、精液付着ティッシュ抽出液中のHIV抗体を検査するというものだった。結果は、165室のうち32室(19.4%)に
HIV抗体が検出され、この内で使用済みコンドームが存在していたのは6室のみということであった。この数値はハッテン場利用者のHIV感染率を示すものではないが、早急に利用者にセイファーセックスを促す必要があると判断した。結果をまとめ、東京のゲイNGOとの会合を設けたが、調査に対する不快感など厳しい指摘が相次ぎ、HIV抗体検査の結果が報告できたのは3度目の会合であった。
 また、コンドーム配布等の予防啓発を試みる研究も行った。この研究には、新宿区保健所の仲介もあって、ぷれいす東京の生島嗣氏と砂川秀樹氏から協力が得られた。ゲイ雑誌の啓発広告、ハッテン場でのコンドーム配布と啓発ポスター掲示を2か月間実施した結果、個室での使用済みコンドーム混在率は12.3%から30.8%と2倍以上に増えた。この成果を踏まえ、東京・横浜のハッテン場オーナーや関係者を集め、コンドーム設置の必要性を説明した。これら一連の取り組みは、男性同性間のHIV感染対策の研究として初のNGO・研究者・行政の協働となった。
 1997年、厚生省のHIV疫学研究班総会で、MSMをテーマにした国際シンポジウムを日本のゲイNGO参加のもと開催した。研究班ではMSMをテーマとすることに反対する声が多かったが、木原氏はこれを説得し、海外からMSMのHIV感染対策の研究やNGO活動をしているスピーカーを招聘した。ハッテン場調査について様々な視点での議論があったが、海外のスピーカーからはMSMにおけるHIV感染を抑えるには研究者とNGOが協力して調査研究に取り組む必要があると強調された。トム・コーツ博士(カルフォルニア大学サンフランシスコ校エイズ予防研究センター所長)は、「私たちの敵はHIVというウイルスであり、共にこれと戦うことが大切」とコメントした。
 その後、長谷川博史氏(JaNP+の前代表)が研究室に訪れ、ゲイコミュニティ向けセミナーでハッテン場調査を報告するように依頼された。長谷川氏はその後も私を新宿2丁目のゲイバーやクラブに案内し、ゲイコミュニティのことを教えてくれた。また、大阪・福岡・札幌・沖縄での取り組みが始まるときにも地域のゲイバーなどに案内してくれた。長谷川氏との出会いは、商業施設を中心とするゲイタウンを知る貴重な経験となり、ゲイコミュニティベースの啓発活動を考える上での基盤となった。

ゲイ当事者たちとの協働による研究

 1997年、HIV疫学研究班に「MSMグループ」が設けられ、ゲイNGOと協働する取り組みが始まった。「MSMグループ」はHIV感染の拡大を抑えるための柱として、1MSMに訴求性のある啓発資材の開発と普及手法の展開、2MSM層での啓発の浸透、3MSM啓発活動の効果評価、4有効な啓発を継続するための行政との連携、5HIV陽性者が差別を受けることのない啓発活動(HIV陽性者との共生)をおいた。これらの実施には、研究者・医療者⇔NGO・コミュニティ⇔行政のパートナーシップを構築すること、NGOがゲイメディアやゲイビジネス関係者の協力を得ていくこととした。
 大阪では、1998年に当事者のボランティア団体としてMASH(Men and Sexual Health)大阪が結成された。MASH大阪は、初めに大阪のMSMにおける検査・予防行動等に関する質問紙調査を実施し、予防啓発のニーズを把握した。調査結果を受けて、若年層のMSMを対象にした総合啓発イベント「SWITCH」を企画し、臨時HIV/STI検査を2000年のゴールデンウィークから3年連続で実施した。臨時検査は、HIV診療医師・看護師などの専門家と公的検査機関の協力を得て、検査結果を採血した翌日に返すという体制で行われた。受検者中のHIV陽性率は約3%、梅毒抗体の陽性率は15~20%と高かった。「SWITCH」はゲイ雑誌に取り上げられ、HIVや梅毒感染の現状をMSMに向けて広く知らせる機会となった。次いで、MASH大阪はゲイバーとの関係を構築し、ゲイコミュニティでのコンドームのプレゼンスを高め、HIV/STIの情報を提供するために、コンドームやコミュニティペーパー配布などのアウトリーチ活動を展開した。
 東京では、2000年にゲイのボランティアと疫学研究者との協働プロジェクトとしてMASH東京が結成された。国内最大のゲイタウンがある新宿2丁目での啓発活動として、ゲイバーでのHIV/STI情報提供会の開催、ゲイバーやクラブへのフライヤーやニュースレター配布などを開始した。また、新宿区保健所がゲイ対象の臨時
検査イベントを実施することとなり、MASH東京は保健所職員へ向けたセクシュアリティ講座、検査前・検査後相談員を派遣する協力を行った。MASH東京は、その後Rainbow Ringを経て、NPO法人aktaとして活動を継続している。
 MASH大阪とMASH東京は、MSMのセクシュアル・ヘルス向上を目標に、ゲイ商業施設の協力を得つつ啓発活動に取り組んだ。しかし、研究費の用途に制限があり、啓発プログラムの開発、資材の作成、人材の確保、活動拠点となる場所の確保などに課題があった。特に、活動を継続するための「拠点となる場」が必要であった。

啓発活動拠点コミュニティセンターの事業化に向けて

2002年、厚生労働省はMSMのHIV感染対策に関する研究班(以下、MSM研究班)の申請を採択した。また厚生労働省は、男性同性間におけるHIV感染予防対策の充実が急務となったことから、「同性間性的接触におけるエイズ予防対策に関する検討会」を設けた。検討会委員は10名の内7名が東京・大阪・名古屋で活動するゲイNGOのメンバーであった。翌年には、同性間性的接触におけるエイズ予防対策の現状とその問題点、今後のあり方をまとめた中間報告を発表した。この報告の後、財団法人エイズ予防財団への試行的委託事業として、MSM対象の啓発活動拠点となるコミュニティセンターが東京[akta]と大阪[dista]に設置されることになった。事業費によりコミュニティセンターの借料が充てられ、研究班の予算により啓発資材の作成や他の運営にかかる費用が充てられることとなった。コミュニティセンターの設置はゲイコミュニティへのHIV感染対策の新たな展開を生むきっかけとなった。
 MSM研究班では、2002年に名古屋のALN(Angel LifeNagoya)、2003年に福岡のLAF(Love Act Fukuoka)、2005年に仙台のやろっこ、2008年に那覇のnankr、2011年に四国のHAATえひめのNGOが加わった。コミュニティセンターは、2005年に名古屋[rise](当時は3N)と福岡[haco]、2008年に仙台[ZEL]、那覇[mabui]が試行的に設置された。

MSMを対象とした「エイズ予防のための戦略研究」とその後

 2006年から5ヵ年計画で「エイズ予防のための戦略研究(主任研究者:木村哲)」が始まった。主要目標として「検査件数を2倍にし、エイズ発症患者を25%減少させる」ことが設定され、課題の1つは首都圏と阪神圏のMSMを対象とした介入研究であった。コミュニティセンターaktaおよびdistaが研究拠点となり、首都圏ではNPO法人ぷれいす東京・JaNP+・横浜のSHIPが、阪神圏ではNPO法人CHARMが参画した。首都圏では新宿に加え、初めて上野・浅草・新橋地域で商業施設を介した啓発活動に取り組み、2010年の「エイズ発症予防できるキャンペーン」によってMSMのHIV検査受検行動を促進した。阪神圏ではMSMの受検しやすいクリニックを開拓してクリニック検査キャンペーンを展開した。大阪府は受検者中のHIV陽性率が約5%であったことから、戦略研究後も事業継続している。
 戦略研究では、HIV検査促進の広報を開始するにあたり、HIV検査で陽性とわかった人やHIV検査に不安を抱いている人に対する相談等を含めた支援体制を整えることとした。首都圏ではHIV検査・医療・相談の総合情報サイト「HIVマップ」を、阪神圏ではHIV陽の人とパートナー・家族のための電話相談「HIVサポートライン関西」とHIV陽性とわかって間もない人のためのプログラム「ひよっこクラブ」を設置した。これらの取り組みは、戦略研究後に厚生労働省委託事業となって継続されている。加えて、試行的事業であった6地域のコミュニティセンターも、戦略研究後には厚生労働省委託事業「同性愛者等のHIVに関する相談・支援事業」となった。

MSMのHIV感染対策に関する今後の展望

 ゲイ・バイ男性へのHIV感染対策の脆弱性は、社会におけるセクシュアリティに対する偏見・差別が要因となっている。20年をかけてゲイNGOやボランティアによってHIV感染対策に取り組む体制が作られてきたが、未だこれらの活動への支援体制は十分とは言えず、また新たな課題への対応も必要となっている(図2)。
 エイズ動向調査では、MSMにおけるHIV感染者/エイズ患者の報告数が大都市に加えて地方都市においても増加し、若年層や外国籍MSMでの増加も見られている。HIV感染対策は都市部に集中しがちであるが、地方における取り組みも必要となっている。地方は、東京・大阪・名古屋の都市部に比べて、HIV検査や治療へのアクセス、同性愛者やHIV陽性者に対する偏見・差別への対応などに課題がある。また、地方で取り組んでいるNGOは、活動費や人材確保などの面で継続が困難な状況にある。NGOによる啓発活動やHIV陽性者支援活動は、MSMへのHIV感染対策を進める上で欠かすことができない。HIV感染が次の世代へと広がっている現状からも、その活動の継続が望まれる。全国のMSMにおけるHIV感染にどのように向き合っていくかについては、コミュニティセンターを運営するNGOや他のNGOが一体となって検討し、研究者・医療者・行政と協働して実践していくことが今後も必要であると考える。

市川誠一(名古屋市立大学 名誉教授)

専門はHIV感染症の疫学研究。1995年から男性同性間のHIV感染に関する疫学研究を開始。厚生労働省エイズ対策研究事業による男性同性間のHIV感染対策に関する研究(2002年〜2016年)、エイズ予防のための戦略研究(2006年〜2010年)において、仙台、東京、横浜、大阪、名古屋、愛媛、福岡、沖縄のゲイNGOと共に啓発活動を展開した。
「関わっていただいたボランティア、ゲイバー、クラブ、ドラーグクイーン、多くの方々に感謝しています。」

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