故・長谷川博史さん 追悼メッセージ&思い出エピソード

「小さなちからを大きくつなぐ」

2022年3月7日に亡くなられたJaNP+創設者の長谷川博史さんについて、追悼メッセージや思い出エピソードを募集させていただいたところ、大変多くの皆様からご投稿いただきました。本当にありがとうございました。

それぞれに抱く長谷川さんとの思い出や気持ちについて、時間・場所・プライバシーに制限されることなく、長谷川さんがつないでくれたネットワークの皆様とともに共有できるよう、このサイトにメモリアルとして掲載しております。

JaNP+ 代表 高久陽介

(投稿者のお名前は敬称略にて失礼致します)

 

 

池上千壽子

ふたりで司会

長谷川さんとの忘れられない思い出は、ふたりで国際会議の開会式の司会をしたことです。
あれは2005年、もう17年も前になりますが、神戸で第7回アジア太平洋地域国際エイズ会議(ICAAP7)が開催されました。
じつはこの会議、2003年に開催予定だったのですが、SARSの流行にみまわれて延期になり、会議開催資金集めは苦労の連続、それでもようやく開催にこぎつけたのです。
アジア太平洋地域からHIVとともに生き、ともに活動するたくさんの仲間たちに来てほしい、開会式は気持ちをこめてもりあげてたい。でも、プロの司会者を雇う余裕はない。
というわけで、急遽、長谷川さんと池上のふたりで司会と相なりました。
メインは長谷川さん、池上はサブです。
というのも、長谷川さんは日本のHIV陽性者ネットワークJaNP+代表として東南アジア各国の仲間たちとであい、語り合い、神戸ICAAPにつなげてきたからです。
池上は当時エイズNPOぷれいす東京代表で長谷川さんとは随所でご一緒でしたが、カップルで司会は初体験、しかもふたりあわせて100歳をこえちゃうのでした。
国際会議ですから司会は英語、なのにリハーサルなし。とにもかくにも大事なオープニング、時間通りにとどこおりなくもりあげておさめろ!
プレッシャーばかりのしかかります。
でも、写真(小さくてすみません)をみてください。長谷川さん、余裕のほほ笑みをうかべています。
いくつものご挨拶やら、日本の仲間たちのパフォーマンスもすいすいと運び、最後に、アジア太平洋各地から来てくれた仲間たちが壇上に上がります。
そして舞台中央にでた長谷川さんと仲間たちの素晴らしいスピーチ、長谷川さんが築いてきた信頼のネットワークが見事に結実し、檀上で生まれたエンパワメントの渦が会場をつつみこみました。
舞台袖の司会席に控えていた私、(やったー!)と無音の快哉、(長谷川さん、すごいよ!)。
長谷川さん、あの時一緒に演壇にたち、あの場を共有できたこと、誇りに思います。ほんとうにありがとう。
できればそちらでもう一度ふたりで司会をしませんか。
いま少し待っていてね。

 

宮田一雄

第7回アジア・太平洋地域エイズ国際会議(ICAAP)の開会式で長谷川さんが行ったスピーチを紹介します。
(解説)長谷川博史さんは日本のHIV陽性者のネットワーク組織であるJaNP+(ジャンププラス)の創設者であり、第7回アジア・太平洋地域エイズ国際会議では組織委員会のPWA小委員会委員長として会議の中心的役割を担ってきた。また、2005年7月1日夕、神戸ポートピアホールで開催された同会議開会式では池上千寿子さんとともに司会を担当し、さらに7シスターズのフリッカ・チア・イスカンダールさんの演説に応えるかたちで、アジア・太平洋地域の参加者を歓迎する演説を行った。(写真は『Monster』の写真家、菊池修さん撮影)

第7回アジア・太平洋地域エイズ国際会議開会式ウエルカム・リマーク
長谷川博史

アジア太平洋地域から集まった親愛なる友人のみなさん。
長い道のりの果てに、私たちはいまここにたどり着きました。
20年前、私たちは過酷な現実の前に、試練の季節を迎えていました。人間の寛容さや、未来を切り開く不屈の精神や、愛を信じる力を試されていました。HIV陽性者が人間としての尊厳を保つことさえ難しい時代でした。
10年前、私たちは科学的にはかすかな希望をつかんではいました。しかし、エイズは世界中へと広がり、国境や、民族、宗教、性別、ジェンダーなど、あらゆるボーダーを超えて、私たちが暮らす小さなコミュニティにまで広がっていきました。
そして今、私たちはいまだに闘いを余儀なくされています。問題を解決するためには、これらのギャプを埋め、立場を超えて力を合わせることが必要です。そこで一人一人が、さまざまな困難を乗り越え、「Bridging Science and Community」のテーマのもとに神戸に集まったのです。
しかし、テーマはいつも象徴に過ぎません。繋ぐべきは私たちが直面する様々なギャップであり、対立するすべての立場です。いまこそ、貧しさと豊かさ、男と女、社会の多数派と少数派、新しい価値観と保守的な価値観など、利害や立場を超え、私たちを隔てるすべてのギャップに橋を架ける必要があります。それはまた、人の心と心を繋ぐ架け橋です。
世界中が力を合わせてエイズと闘うためには、いかなる理由があろうと、同じ病で倒れる者と生き残る者の格差があってはなりません。治療にアクセス出来る者と出来ない者のギャップを認めてはなりません。不合理な差別を放置することは許されません。
HIV陽性であろうとなかろうと、その想いが前向きであろうとなかろうと、私たちは同じ世界に生きているのですから、ここに集まった人々はみな、小さなウイルスとの大きな闘いに立ち向かっている仲間です。今日から五日間、さまざまなギャップに橋を架けるために有意義な議論が繰り広げられることと思います。
私たち第7回アジア太平洋地域国際エイズ会議組織委員会はみなさんを心より歓迎いたします。ようこそ神戸にいらっしゃいました。そしてみんなで会議を楽しみましょう。HIV/AIDSとたたかうすべての人々の明日のために。

 

市川誠一

「また、温泉に行こう。」

2021年11月19日17時40分、長谷川博史さんから電話がり、久しぶりに話した。東京で開かれる日本エイズ学会総会の時に夕食を一緒に食べないかという連絡だった。新型コロナ流行もあり、名古屋から出ないようにしていると答えたら、がっかりしていた。もう3年近く会っていないので、私も東京に行きたいと思ったけど、「仕方ないね」と二人で納得(?)した。スマホには37分35秒の会話履歴、彼の声を聴くことができた最後の会話となった。「暖かくなったら、温泉に行こう」、そう約束して電話を切ったのを覚えている。
長谷川さんとは、1998年からのつきあいである。長谷川さんは、私が当時勤めていた神奈川県立衛生短期大学(横浜市旭区)の研究室に訪ねてきた。5月連休のイベント「ジーメン祭」で、シンポジウム「日本のゲイコミュニティとエイズ~いま、僕たちにできること~」を催すので、厚生省HIV疫学研究班で実施したハッテン場調査の結果を話してほしいという依頼であった。長谷川さんは、初めて会う私に、ゲイであること、ゲイ雑誌の編集長であること、HIV陽性者であること、そして日本の男性同性愛者におけるHIV感染予防対策の必要性を話した。
これを機会に、長谷川さんからたびたび連絡がくるようになり、新宿2丁目のゲイバーに案内され、マスターに紹介され、ゲイバーをはしごしたり、2丁目で開かれるクラブパーティでドラーグクイーンに紹介されたり、2丁目の美味しい小料理屋で夕食をとりながら新宿、上野・浅草、品川のゲイコミュニティの話を聞いたりした。日本のゲイコミュニティについてのレクチャーは、新宿2丁目にとどまらず、大阪、名古屋、札幌、福岡、沖縄と、各地でゲイバーに連れて行ってくれた。大阪で長谷川さんの友人が営むゲイバーに行った時は、「ノンケを連れてくるなんて」と追い出されたことがあった。札幌では、日帰り温泉に入り、サッポロビール園で食事をしてから、すすき野のゲイバーを訪ね、名古屋では、高山市まで用があって出向き、温泉宿に泊まり、露天風呂に入ったこともあった。
長谷川さんは、いつも、どんな時も、私の背中を押して、前に進むことを応援してくれた。2002年には、厚生労働省「同性間性的接触におけるエイズ予防対策に関する検討会」で一緒に委員をし、また厚生労働省MSMにおけるHIV感染対策の研究班が始まり、各地域のNGOの結成に取り組み、NGOと協働してエイズ対策に取り組む体制構築に努力した。研究班は、若い世代に引き継がれ、今では北海道から沖縄までのNGOネットワークとなっている。
1998年5月に開いたシンポジウム「日本のゲイコミュニティとエイズ~いま、ぼくたちにできること~」の後、長谷川さんの活動は多くの成果を生んできた。その一つに、全国6地域でゲイコミュニティへのエイズ対策拠点となっている「コミュニティセンター」が挙げられる。これらのコミュニティセンターは、長谷川さんと歩いた地域に設置されている。
最近の二人の話で、長谷川さんは、「お互いよくやってきたね。」、そして「また、温泉に行こうね。」と言っていた。もう、その話もできなくなった。とても淋しいです。
二人が一緒に写っている写真は1999年12月19日に撮られたもので、この20数年間の書類、記録集をひっくり返してようやく見つけたものである。とてもなつかしく、これからも大切にしていきたい。

 

井上洋士

長谷川さんに見守られた30年

長谷川さんと最初にお会いしたのは、ある会合で彼から声をかけられたときだった。当時の私は、日本において「エイズ予防」の情報はたくさんあるものの、治療についての情報はほとんど提供されず、HIV陽性者らが「もう死ぬしかない」と思って生きることを諦めようとしている状況にあることに、心底怒っていた。医療機関によるHIV陽性者の診療拒否も当たり前にあった時代であった。そんなとき、長谷川さんから声をかけられお願いされたのは、「新しいゲイ雑誌を発行するので、そこにHIVのことを毎号書いてほしい」ということだった。よくわからないうちに、勢いに押され、何げに引き受けたのだったが、これが大変な作業だった。毎号毎号、HIVのことを書き続けるというのは、そして誰にでもわかる言葉を使って説明するというのは、至難の業だったのだ。とはいえ、結局井上は、このゲイ雑誌Gメンの創刊から120号くらいまで、すべての号にHIV情報を書き続けることになった。記事には井上の名前は入れず、長谷川さんが作ってくれたペンネームで出すこととした。そして、読者の中に必ずや存在するHIV陽性者の方をメインターゲットにしつつ、けれどもHIV陽性ではない人にも読んでもらい、HIV感染とHIV陽性者の生活のリアルを知ってもらうことで、治療へのアクセスや予防を向上させ、そして差別・偏見の問題を少しでも減らすということを、無意識的に行っていこうというプロジェクトだった。
このころから、長谷川さんは井上の研究やHIV関連活動について、直接的にはあれこれ言わないものの、情報は常に集めていて、会うときに時々コメントやアドバイスをくれる存在となっていた。一緒に動いているというよりはむしろ、見守ってくれている存在だったと言えるかもしれない。
井上も、年をとるたびに、次第に世の中的には「偉く」なっていくので、周囲の井上の呼び方も「井上くん」→「井上さん」→「井上先生」と変わっていった。けれども、長谷川さんだけは最後まで「井上くん」と呼びとおしてくれた。それがとても気持ちがよかったし、長谷川さんのおかげで、奢らずにあくまでも「井上くん」でいようと思う気持ちの整理もついたと思う。
ただ、そんな長谷川さんとお食事をしたり飲みに行ったりするときには、長時間拘束されることを覚悟しなければならなかった。今なら違うのだと思うが、当時、分刻みの仕事をしていた井上にとって、長谷川さんとの食事やお酒は少々負担となってきた。ある時期から、長谷川さんからのお食事のお誘いをやんわりと断り続けることになった。断るのも10回目くらいになると、長谷川さんもさすがに気づくようになり、「井上くんはいくら食事に誘っても断るのよね。本当に冷たいわ。」と冗談交じりに言ってくるようになった。心残りとまでは思わないけれども、そんな井上のイメージを持ち続けて、旅立たれたんだなとは思う。
そんな遠くない将来、長谷川さんとはまた会える気がする。周囲のHIV陽性者の方々が次々とお亡くなりになる30年前から、HIVイシューへの取り組みをご一緒してきたつもりの身としては、しばし寂しい思いをするだろう。けれども、今度お会いしたときには、ゆっくりと食事でもして、これまでの取り組みは何だったんだろうか、こんどは何ができるだろうかと話し合いたい、そして見守られ続けたい。そんな気持ちに自然となるのは、きっと、一見して激しそうにみえつつも、実は穏やかさで包まれている長谷川さんだからだと感じている。

 

John Rock

Hiroshi was a lovely lovely man. He showed amazing courage in the work he did on HIV and on behalf of the HIV+ community in Japan, especially given the high levels of discrimination. He was direct and firm in his responses. Like me he was one of the early positive people, and he struggled with his health in latter years, but never complained.
I have wonderful memories of him. He always had a ready smile and his laughter lit up the room. We first met in Liderbashi in about 2004,but I met him mostly in Bangkok and at other conferences around Asia. I remember how professionally he co-hosted ICAAP in Kobe. He once arranged a visit for us both to the University of Nagasaki where they were doing studies into lipodystrophy. Hiroshi negotiated such a generous per diem that afterwards we went to a hot springs spa in a small town about an hour away from Nagasaki.
Hiroshi was a gentleman, kind and generous and a great supporter of human rights for many marginalised communities. I feel honoured to have known him and spent time with him, and I will miss him as a friend. The world is a better place as a result of his life.

 

矢島 嵩

訃報を受けてから、なかなか実感がないままに時間が過ぎていきます。
長谷川さんが満身創痍だったことは重々承知していましたが、心のどこかに“長谷川さんは不死身”という思いがありました。
でもそれは、魂レベルの話だったのですね。肉体はやはり朽ちていく。
こうして肉体を持ってして日々暮らしているぼくにとっては、長谷川さんが肉体から離れていってしまったことが、ひとつの区切り、お別れということを認めなくてはいけないのでしょう。
ひとつの時代が終わりを告げた。
そんな風に感じられ、虚ろな気持ちにもなります。
長谷川さんがHIV陽性とわかったのが1992年、厳しい時代です。
自分は4年後の1996年。新薬ができて医学的には希望が生まれた年です。
死ぬのを待つだけの病が、生存可能になりました。劇的な変化です。
しかし、それは誰もが自分らしく生きられるようになったということを意味したわけではありませんでした。
ウイルスはコントロールできるようになったのに、人々の心の弱い部分が差別や無関心による思考停止を生み、医学の進化ほどには社会は変わることができないのです。
2000年代初頭のある晩。
HIV陽性者のセルフヘルプグループを長く主催してきたTさん、長谷川さん、ぼくの3人で、居酒屋で飲んでいたときのこと。
「自分を活動に駆り立てている根源にあるのはどんな感情か?」という話になりました。
Tさんは“悲しみかしら”と言い、長谷川さんは“怒りがある”と。当時ピアグループに関わっていたぼくは、明言できなかったけれど“感謝”かなと。
厳しい時代を生き抜いてきた人から、さまざまな人たちに思いが引き継がれていき、個人もコミュニティも社会も、少しずつだけれど変わり始めました。
それを先導してきたのが長谷川さんです。
差別につける魔法の新薬は発見されていないので、日々の変化は地道な活動によるもの。だから、遅々として進まない焦燥感もあり、問題意識が薄れて離れていく人たちも多いけれど。それでも、長谷川さんがHIV陽性とわかった30年前といまをくらべてみると、世の中は確かに変わりました。
だからこそ長谷川さん、これから先の30年後がどうなっていくのか、持ち前の好奇心と慈しみのまなざしで見守っていってください。
肉体的な苦痛から解放された安らかな世界でぼくたちを支えていてください。

 

おおきさちこ

都庁のエイズ対策係に異動になってまもなくの時期。たぶんご挨拶に伺うためのお約束のための電話で長谷川さんは、たくさんお話をしてくださいました。都庁の担当者は2~3年で変わっていくので、「またか」と思いながらも、新任の保健師に伝えようとしてくださったのだと思います。長谷川さんは、HIV陽性者とともに生きていることの「可視化」の重要性を話してくださいました。私は、電話でのレクチャーに戸惑いながら、エイズ対策でのコミュニティの存在感を強く実感した出会いでした。

コミュニティでの啓発予算が大幅に減額されそうになった時、予算担当部長と偶然、aktaで出会っていただく私たちの他力本願作戦を快諾いただきました。
そして、aktaの視察に部長をお連れし、対面。

部長「なぜ、男性を好きになるのですか?」
長谷川さん「あなたは、なぜ女性が好きなんですか?」
部長「…ああ…そうか」

長谷川さん「理解していただかなくていいんです。慣れください。」
その視察後、部長はエイズ対策係の応援団になってくださり、予算確保にもつながりました。

東京都退職後も、大学院の講義に来ていただいたり、研究班でご一緒したりしながら、ご飯を食べてお酒を飲む機会があったこと、感謝しています。いつも新しいことを教えていただきました。四谷三丁目の小料理屋さんでご一緒していた時に、お隣の席のお客さんが、偶然に私たちの共通の友人のお父様であったということもありました。そんな時も長谷川さんの茶目っけたっぷりの会話で初対面のお父様とも、楽しい宴となったことが思い出されます。

昨年の暮れに、少し前まで入院をしており、その入院中の看護師が私の担当しているコースの卒業生で、とてもよい子だったから伝えたいと思って、とお電話をいただきました。私は長谷川さんの体調をお尋ねたら、自分のことよりも、続けてメンバーが逝ってしまった法人を気にかけてあげてと、話されていました。あのお電話の時に、会いにいけばよかったと悔やんでいます。

まだ同じ時間を過ごせるように思ってしまっていました。生の声が聴けず、生の長谷川さんとお会いできないのは、寂しいです。やっぱり、さびしいです。
でも、長谷川さんは本当に満身創痍の中、前を向いて生き続けてこられたのだと思います。それは、きっと本当に大変なことだったのだと思います。なので、重荷をおろして、ゆっくりおやすみください。そして、ありがとうございました。

都庁のエイズ担当課長であったIさんのお別れの会は、長谷川さんも呼びかけ人になってくださり、追悼文を読んでくださいました。その文章の最後には、「僕たちの闘いは終わる事はありません。これからも天国から僕たちを見守っていてください。優しく西日のようなあなたの慈愛に満ちた心で…」ということばがつづられています。私たちは、愚かな失敗を繰り返してしまいます。長谷川さんも、天国で安らかに憩われながら、そんな私たちを見守っていてください。
安らかな旅立ちでありますように、お祈りします。

 

生島 嗣

長谷川さんは、何気ない言葉で、自分のブレを修正してくれる信頼できるアクティビストの先輩/同志でした。そして、将来の目標に向けて役割分担をしながら、協働できる人でした。初めてお会いしてから、実に28年のお付き合いになりました。

写真はHIVに関するコミュニティセンターを全国に立ち上げた功労者のお二人(市川誠一さんと長谷川さん)。本当にお疲れさまでした。これからも、見守ってくださいね。

 

大塚隆史

今思えば思いがけないご縁で、お亡くなりになる前日の3月6日に、長谷川さんと長い時間お話しする機会がありました。プライドハウス東京が企画した『LGBTQコミュニティアーカイブ・トーク』のビデオ収録が千代田区立図書館であったので、久しぶりにお会いしたのです。
偶然にも二人とも名前に『史』が付くので、昭和・平成のゲイシーンの歴史を語ってみようという企画でした。この収録したものはいずれプライドハウス東京で公開されると思いますので、ぜひご覧になってください。長谷川さんが元気にいろいろなエピソードを語っていらっしゃるお姿が見られるはずです。どうかお楽しみに。

収録時には設営準備や休憩などもあり、けっこうな時間、長谷川さんとは『歴史』とは関係なく、いろいろな話をすることができました。10年ほど前、僕が、長谷川さんのお部屋の写真を撮るためにお訪ねした時に、さりげなくというか、わざとらしくというか、壁に、裾の長い学ランと真っ赤な土方ズボンがかけてあり、床には女装のためのピンクのメイクボックスが置いてあったことを思い出して話したら、「当たり前よ、大事なものは全て撮ってもらわなくちゃ。演出として出しておいたのよ。」と返されて、大笑いしたり…。かと思うと「僕ねぇ、ひょっとしたら近く右足も切らなくちゃならないかもしれないんだよね。」と言うので、返事に困っていると、「僕はもういつお迎えが来てもいいってずっと思ってるんだよね。」と逆にこちらを慰めるような表情で言われたり…。断片的に、脈絡なく話題は次々と変わっていき、最後には「タックさんとこんなに話したのは初めてかもね。もっと話したかったなぁ。」と言ってくださいました。

収録の方は残念ながら時間切れとなってしまい、HIV関連の話題は後日再挑戦とすることになり、解散となりました。司会の石田仁さんや企画を進めてくださっていた山縣真矢さんたちはプライドハウス東京に寄らなければならないとかで、その場ででお別れし、長谷川さんと僕は都営新宿線で一緒に帰ることになりました。真っ直ぐお帰りになるんですかと聞くと、「最近は自炊がちょっと面倒臭くなっちゃって、小田急の地下に寄って何か出来合いの物を買って帰る。」とのこと。いつもは自炊してるの?と返すと、「普通に作るのよ。鳥の炊き込みご飯は割とよく作るかな。」との返事。炊き込みご飯も作るの〜と驚くと、「炊き込みご飯を炊くと、おかずを一品減らせるから便利なの。ゴボウのささがきはピーラー使うようになってからチョー簡単よ。」とちょっと自慢げ。地下鉄の中でゴボウのささがきの話をしてるなんて、なんだか主婦の会話ねと笑いあったのでした。

新宿駅に着き、「じゃ、次の収録まで元気でね」と長谷川さんが降りて、僕は初台へ向かうためにそのまま車内に残ってホームの長谷川さんに手を降ると、なんとも優しい笑顔で手を振り返してくれました。

結局、この時が長谷川さんとの最後のお別れとなってしまったわけですが、僕の脳裏に焼き付いた最後のイメージが、このなんとも言えない優しい笑顔だったのが僕には素晴らしい贈り物になりました。

実は、この収録の時に、長谷川さんにお見せしようと思い、22年前の写真をiPhoneに入れて持っていってたのですが、このメモリアルサイトには写真を上げることもできるようなので、その写真を載せておきますね。この写真の頃の長谷川さんはモテモテで、ひきかえ当時の僕はといえば髪を緑に染めてるオバさんで、「実は敵愾心に燃えていたのよ!」と長年の思いを長谷川さんにはちゃんと伝えられたので、思い残すことはないです(笑)。

長谷川さんは様々な分野の方のお知り合いも多く、業績も知られていらっしゃる方でした。ですから、僕としては亡くなる前日にご一緒していた様子をお知らせすることで、長谷川さんが生きて生きて、最後までしっかりと生活をなさっていたことをお伝えしたいと思い、文章に認めました。

長谷川さん、お疲れ様でした。どうぞ、ゆっくりお休みください。生き抜いてくださって、ありがとうございました。

 

福島光生

『このオバサン、お節介だからね!』と長谷川さん。
『はいはい』と僕。
長谷川さんと僕のやりとりは、みんなの前ではいつもこんな感じだったと思う。
『うるさくて、おしゃべりだからね。このオバサン』
『はいはい。そうですよ』

長谷川さんが予防啓発活動を積極的に始めるまで、ゲイの街、新宿二丁目では『HIV/AIDS』の話はタブー視されていた。病気の正体がまだはっきり解らず、治療という対抗の手段も無く、みんなが暗い気持ちでいた。また、ウイルスの大きさは細胞の間隙よりも小さいから、ポジティブの人の唾液が飛ぶ、バーなんかに来るべきでは無い、という、ばかばかしい噂を流布する人までいた。

『ねえ。二丁目でコンドームを無料で配れる仕組みを作りたいんだけど、協力してくれない?』
二丁目で『mf(メゾフォルテ)』という店を始めていた僕に、長谷川さんからそんな話が来たのは、1999年の終わりか2000年のはじめ。コピーライターが本業の私はコミュニティとコンドーム、そして当時は新しい感じがした.comをもじり『project com.』という団体名を作った。
『あら、良いじゃ無い』と長谷川さん。
褒めてもらったといえば『ぷれいす東京』の小冊子のために作った『安心できると、もっと感じる。』というヘッドライン。
セックスを否定的してしまう予防啓発の言葉が多い中で、欲望や行動を否定せず、予防させながら肯定する、という解説までつけて賛辞の言葉をいただいた。
いつもはうるさいオバサンよばわりなのに。
ネーミングの後は、バーのママ達を集め、このまま感染が広がれば、マイノリティ相手のビジネスは無くなっていく、早く予防啓発活動を始めましょう、と『project com.』が始動。
いつの間にか僕は会長にさせられて、日本で初めてゲイのコミュニティでのコンドーム無料配布が始まることになる。

長谷川さんは様々な場所で様々な予防啓発の種を蒔き、多くの団体の基を作ってくれた。感染者当事者として『性病やみのオカマでございます!』という発言やピンクベアリーヌというキャラクターを携え、予防啓発がいかに必要かを広げていったのは、ここに書くまでも無いと思う。予防啓発は多くの人の健康と命を救ったに違いない。そんな彼を本当に尊敬していた。

僕の店には本当にまめに顔を出してくれた。予防啓発に協力的でない行政への愚痴など、ここには書けない黒い話やら、長谷川さんの誕生祝いやら、たくさんの人を連れてきて紹介してくれたことや、書き始めたらきりが無いほどたくさんの思い出。
ちゃんとした僕の思いを伝えることも無く、急に向こうへ行ってしまうなんて、悲しすぎる。

向こうで僕が会ったら、伝えたかった言葉を僕は伝えます。
『あなたの方が僕より、もっとうるさくてお節介だからね!』
それまではあなたがどんな事を言ってたか、多くの同士たちと言葉を伝え続けます。
どうもありがとう。

 

沢田貴志

日本のエイズ医療において当事者からのアドボカシーをリードして下さっていた長谷川博史さんが急逝されました。2005年に神戸で開催されたアジア太平洋エイズ会議開会式でのスピーチは、今思い出しても会議の本当の意義を伝える素晴らしいお話しでした。
長谷川さんには外国人の医療の問題でもいろいろと助けて頂いていました。無保険の外国人の診療忌避の問題を行政に持ち掛けた際も、性的少数者の外国人支援のカフェが始まった時もいつも長谷川さんはそばにいてくれました。ちょうど来週からコロナ禍で生活困窮している外国人の医療についてアドボカシーをする予定で長谷川さんにもお声掛けをしようかと思っていた矢先でした。
でも、嘆き悲しむ時間はありません。来週から政策決定者への働き掛けを始めます。きっと長谷川さんはこれからも私達のそばにいてくれるでしょうから。

 

早坂典生

長谷川博史さんへ送る言葉

長谷川さん。長い間の治療、活動、お疲れ様でした。また一人、HIVと共に生きてきた先輩が旅立ったことはとても寂しいです。
常にHIV陽性者の先頭に立ち、HIV陽性者の人権を守ること、HIV陽性者の課題克服のための様々な情報発信、スピーカー養成やスピーカー活動に取り組んでいただき、ありがとうございました。
私が長谷川さんと出会ったからもう20年ですね。その間にも多くの先輩や仲間が旅立ち、そのたびに「僕より若いのにと・・・」悲しがっていましたね。最後にお会いしたのは昨年のエイズ学会でのことでした。
最初は、りょうちゃんずの代表から長谷川さんを紹介され、ジャンププラスのスピーカープログラムの作成に協力させていただくことになりました。何もできない私に対しても、優しく、楽しく、指導をしてくれてうれしかったことを覚えています。当時の私は、日々の生活が手一杯で将来を考える余裕も無く、HIV関連活動、情報開示やHIVと向き合うことする迷うこともある中で、他の陽性者と話しをしたり、それぞれの経験や違う価値観を考えたり、その後の活動に大きく影響した研修参加であり、長谷川さんとの出会いもきっかけになりました。
また、その後は国際会議で一緒になったり、研修会等で意見交換することも自分の見聞を深める機会になり、様々な場面で大変お世話になったことも思い出です。
そして、当時は考えられませんでしたが、結果として、今ようやくHIV感染症が治療により死の病を克服し、HIV陽性者であっても他者に感染させることなく暮らせる時代になりました。過去を知る身としては、この劇的な変化を生きている限り、様々な機会に伝えていかなければと思っています。
そして、本来、その役割の先頭にいたのが長谷川さんでしたが、これからは私たちが当事者として語り継ぎ伝えながら、これからのHIV陽性者が生きやすい時代となることを目指したいです。きっとジャンププラスのスピーカー研修に参加した皆さんにもその志は繋がっていくと信じています。見守っていて下さい。
そして最後に、出会いに感謝します。本当に長い間、お疲れ様でした。
ありがとうございました。

 

花井十伍

長谷川さん、最後にあなたとゆっくりお話しをさせていただいたのは何年前になるのでしょう。目黒駅の階段に腰掛けていろいろ話しましたね。ART以前のサバイバーがひとりふたりと消えてゆくたびに、生き残り組の体にもすきま風が吹いています。

また、そちらで遊びましょう。

 

灰来人

長谷川さんと初めてお会いしたのは、多分2010年のエイズ学会。
自分のHIV感染が分かって、まだまだモヤモヤしていた頃に初めて参加したエイズ学会。
どなたが引き合わせてくれたのか記憶は遠い彼方にいってしまいましたが、とあるセッションの会場に入ると私を見つけてくれ、壇上からニコニコと大きく手を降っている長谷川さんの姿が強烈に記憶に残っています。
そして、私がHACOに常勤することをになった時には、まるで自分のことにように喜んでいただきました。
以後、年齢が近いこともあってかとても懇意にしていただき、思い出は多すぎて尽きません。
一時期、HACOとの関係で疎遠になり、私も体調を崩して離れたこともありましたが、問題も解決して私も復帰することになった、コロナの流行が始まる直前のとある会合でのこと。
会場に入ってみえた長谷川さんは、私を見つけると車椅子です〜っと側まで来て、あのいたずらっぽい目をしながら耳元で、「聞いてるわよ〜!」と復帰をとても喜んでいただきました。
まだぽっかりと空いた穴を埋めることができません。
「ピンクベア」の本に書いてあるように、私達は長谷川さんの娘!
意思を継いでいかないと…と書いていると、長谷川さんの声が聞こえてきます。
「あんたみたいなババアは娘じゃないわよ!」と。
まだ私の中では長谷川さんは生きているようです。
戦い抜いて、満身創痍になっても、ユーモアを忘れない…カミソリのように鋭く、お茶目でビッチな可愛いアネキ。
同じババアでも、長谷川さんには遠く及びません。
ゲイであることも、HIV陽性者であることも、恥ずかしいことではないと教えてくれたのは長谷川さんでした。
ありがとう、そして、おやすみなさい、長谷川姉さん!

 

けいた

約10年前からJaNP+での活動を始めたころに初めてお会いしたと思います。交流会やそのほかのイベント、学会でお会いすることもありましたし、街中でばったり会って「あら長谷川さん♡」なんてこともあったかと思います。大切な話も、おバカな話もいつも優しく話しかけてくださりありがとうございました。
明確には聞いたことはないけど、ゲイであること、HIVをもっていることよりも、それ以上に孤独でいること、つながりを持てないでいることが、人にとってはつらいことだ、とお考えだったのかな、と思っています。
たぶんそんな意識はあんまりなかったのかもしれないけど、ゲイとしての私、HIV陽性者としての私が触れられるメディア、入ってけるコミュニティ、活動する土台がたくさんあるのは長谷川さんが切り開いてくれたから何だなぁと思うことがたくさんあります。「今はいいわよね」って私が長谷川さんくらいの年になった時に若いゲイの子に言えるように、より良い社会を作りつつ、かわいいゲイになっていこうと思います。
体調の辛いことも多かったでしょうし、車いすで不自由な思いをされることも多かったと思います。どうか自由に、安らかに休んでくださいね。

 

岡本 学

たくさんのありがとう!を伝えきれたかなぁ。
大好きです!
ありがとう!

22歳で出会って、45歳までの僕を本当に支えてくれました。

HIV感染予防のボランティアな時代から、ソーシャルワーカーとしてHIV陽性者支援をするようになる時にもご相談させてもらいました。
その後は、励まされ、怒られ、教えられ。
『がくちゃんさぁ』『がくちゃんはさぁ』って声をかけ続けてもらいました。
『博史!』って、甘えさせてもらいました。

GIPAを熱く語られていたことは、これからも僕のど真ん中においておきます。

僕は、長谷川博史と過ごせた時間を、個人的にも、仕事上でも、とても楽しく、有意義に過ごさせていただきました。

次に会う時に、『がくちゃんさぁ、もうちょっとできたかもよぉ?』って言われないように、一緒に取り組んできたことを、これからもできる範囲で頑張っていこうと思います。

ご冥福をお祈りいたします。

 

青木理恵子

2003年の第7回ICAAPアジア太平洋地域エイズ神戸会議の夜、クラブイベントで長谷川さんはお姫様のようなピンクのドレスを着て「熊夫人の告白」を朗読した。一つ一つの言葉に込められた愛、強さ、プライド、悲しみ、弱さ、怒り、優しさ。色々な思いを通り越して凛とした姿がそこにあった。それは、年を重ねるごとに純化していった。2021年は何度も死にかけたけれど生き返ったと言っていた。そして11月にエイズ学会メモリアルサービスでもう一度「熊夫人の告白」を短く朗読した。

コロナで生前パーティーを開催できなかったけれど全国の仲間が貴方の出港を見送るから空から見ていてね、てるちゃんと。

 

岩橋 恒太

長谷川さん、本当にお疲れさまでした。
ゆっくり休んで、おいしいものやおいしい出会いを堪能しください!
長谷川さんとの最初の出会いは決して、いい思い出ではありませんでした(笑)
大学を卒業したばかりの頃で、当時「エイズ予防のための戦略研究」という研究班が長谷川さんと初めて会ったときでした。
当時、長谷川さんが提案されていたパンフレットの案に、空気が読めなかった私は、ビッチリ修正案を書き込んで長谷川さんに原稿を返しました。そのときに「わかっていない!」と怒られたのも、いい思い出です。
国際交流の大切さを教えてくれたのも長谷川さんです。
2011年のアジアのエイズ国際会議ICAAPに参加するのに一緒に釜山に行きましたね。
80〜90年代から世界で戦ってきた戦友を紹介してくださいました。
英語表現でつまずく私に、「何が言いたいかがあることが先、英語はブロークンでも何も問題ない!」と背中を押してくださいました。
その戦友からは、「ヒロシは何っているのか最初、英語がまったくわからなかったが、なぜか伝わってくるものがある!」と言われていましたっけ。
私が先代のジャンジさんからaktaの理事長を引き継いだ際も、なかなか書ききれないようなことも含めて、応援してくださいました。
そうそう、そのタイミングでご自宅にお呼ばれして、長谷川さんの手料理をいただいたこと、今でも忘れません。
長谷川さんが遺してくれたこと、取り組まれてきたことは確実に、いろいろな人が引き継いで、つないでくれています。
その一部を、私も受け継いでいきたいと思っています。
いつもの笑顔で、折に触れてエンパワーしてくださったこと、忘れません。
本当にありがとうございました。

 

Jane Koerner

My sincere condolences to the many people and communities who have been touched by the life, work and activities of Hasegawa san. This includes people living with HIV & AIDS, the broader HIV, gay and LGBTIQ+ communities in Japan and internationally, as well as JaNP+ and Hasegawa san’s friends and family. I met Hasegawa san in 1999 at the meetings at Koseisho to review the old HIV policies. At that time, Hasegawa san was a huge bear of a man, who was incredibly welcoming and open to everyone with an interest in gay community and HIV activities. He was very inclusive in his work and advocated for all. I feel very privileged to have known him and it is a big loss. My thoughts are with you all during this difficult time. Sending my warm regards from Canberra, Australia.

 

鈴木恵子

「熊夫人の告白2」を初めて聞いたのは、私が、エイズ予防財団の研修に参加した日。まだ何もしらない頃。金髪のドラァグクィーンの長谷川さんが、「あなたはご存知ないかもしれませんが…」ではじまる詩を朗読したのを聴いて、何故か泣いていました。
本をすぐ取り寄せたのですが、サインをしてもらったのは、2015年。中野の病院にお見舞いに行って、サインしてもらい…「熊夫人の告白2」のあの朗読を聞いて、涙が出ましたと言ったら、贅沢にも、朗読までしていただいたことは、忘れません。
名古屋のNLGRで、男性限定のトークショーにも、こっそり参加を許してくれた。畏れ多くて、そっと後ろの方から聞かせていただいた。
色々なことがあり、お叱りも受けたけど、「うなぎ食べながら、ババアの悪巧み、考えましょう」と約束もした。
Facebookのメッセンジャーは、消さずに残します。

今年、浜松でエイズ学会があるんです!
うなぎ食べる約束、果たせないじゃないですか!
もう一度、会いたかった‼️
思い出すたび、涙が出ます。
私は違うセクシャリティだけど、そんなこと関係なく、誰もが与えられた命を大切に生きていける世の中になって欲しいと思っています。
もう少し、頑張ります!
ご冥福をお祈りいたします。

 

根岸潤

長谷川さんには、東京都エイズ専門家会議の委員をはじめ、多くの講習会、研修等にご参加いただくなど、都のエイズ対策を進めるにあたり、多大なる御協力をいただきました。あらためて御礼申し上げます。
私が初めてお会いしたのは約3年前で、団体の実施する講習会の会場でした。すでに長谷川さんは車いすを利用していましたが、講師の方に積極的に質問するなど、元気な姿が印象的でした。
HIV/エイズに対する長谷川さんの熱い想いは、確実に次の世代に引き継がれていると思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。

 

井戸田 一朗

私がまだ地方の医大生だった1993年頃、ゲイ雑誌を通じて長谷川さんに手紙を送り、「HIVを勉強したいと思うが、患者さんをよく診ている病院はどこか」とお聞きしたことがあります。会ったことも無い私にすぐに返事を送って下さり、心強く思っていること、駒込病院や東大医科研などの病院があることが書かれた、温かいお手紙でした。
卒後、駒込病院に研修医として応募・採用され、HIV/AIDSはもちろん、感染症の臨床をしっかり勉強し、感染症を専門とする道が決まりました。
今の自分がここにいるのは、長谷川さんとのご縁によります。心からご冥福をお祈りします。

 

田沼順子

長谷川さんとゆっくりお話しする機会を持てたことは、医療者として本当に幸運なことでした。お約束したとおり、長谷川さんから頂いた医療界への”宿題”にしっかり取り組んでまいります。どうか見守っていてください。

 

若林チヒロ

長谷川さんとは1990年代初期、まだ決定的な治療薬がなく、受診できる病院も限られていた頃に知り合いました。陽性者向けに医療・生活情報誌を発行するボランティア団体をしていたことから交流するようになりました。ご自宅で手作りランチをご馳走して頂いたのも懐かしい思い出です。当時、長谷川さんはゲイ雑誌の編集長として、感染リスクのある人たち向けの予防メッセージや陽性者向けのサポート情報を、他の一般誌面と違和感なく読者に届くよう巧みに提供していました。当時から一貫して当事者コミュニティへの思いで活動していたのだと思います。最近はお会いすると、わずかな希望をつないでサバイバルしていた当時のことや、HIVにこんな時代が来るとは想像できなかったねなどとお話しすることが多かったです。ありがとうございます。心からのご冥福をお祈りしています。

 

じゅんぺい

17年前、当時のパートナーに連れていってもらったクラブイベント「Juicy!」。
ピンクベアさんを…というより…間近にドラァグ•クイーンを見たのは、僕にとってそれが初めてでした。
派手な色のドレスに胸パッド、ヒゲヅラでスパスパ煙草を吸っている姿は、マジで強烈な毒々しさで!
その後で、長谷川博史さんとして改めて知り合い、JaNP+等のさまざまなプログラムで一緒になる機会を与えていただきました。
ピンクベアさんや長谷川さんから教えていただいたことはたくさんありますが…そのどれもに”「自由」を得るためには「覚悟」も必要” という強い思いがにじんでいたような気がします。
自分の力で闘い、たくさん傷ついて、覚悟を礎に人生を貫いた長谷川さん。
だからこそ、自由でいられることに人一倍 感謝をしていたに違いありません。
でも…もし 最初から「自由」だったなら、その価値やありがたみを真に理解できるのだろうか?
この17年…僕の中にはそんな思いがずっとあったし、今なお疑問は解けていません。
3年前、僕と長谷川さんをつないでくれたパートナーが亡くなりました。
長谷川さんは僕の心中を察し、直後に、友人数名とお別れの会を開いてくださった。
その席で長谷川さんがおっしゃった言葉が、今も心に残ります。
「じゅんぺいくん、つらいだろうけど彼のことは早く忘れなさい。そして、若くて健康な男を見つけること!」
長谷川さんらしいな、と苦笑したものですが…当時の僕は、真意を推し量れるだけの心の整理ができていませんでした。
あれから3年…僕は改めて、長谷川さんのメッセージをかみしめています。
「ボクたちみんな、ひとりで老いて死んでく運命なのかもよ?覚悟は決めとかなきゃいけないよね」
「でもそのぶん、自分が選んだ人生で得られるものって、ホントに素晴らしいんだからさ」
つらい時に優しさを示してくれる人たちは、自分の周囲にもホントにたくさんいます。
それはもちろん、めちゃくちゃありがたいです。
ただ、誤解を恐れずに本音をさらけ出してくれる長谷川さんのような人が…最近では本当に少なくなってしまった現実にも、目を背けちゃいけないなって思うんですよね。
新しいステップって、壁にぶち当たるところから始まるから。
美食家だった長谷川さん。
これからは何も気にせず、好きなものを好きなだけ、いっぱい召し上がってくださいね!
尽きせぬ感謝をこめて。

 

community center ZEL 太田、高橋

長谷川さんとcommunity center ZELのスタッフのゲン(高橋)の生年月日がすっかり一緒だと言う縁もあり、長谷川さんにはZELの開館当初よりお世話になりっぱなしでした。たまにお会いしたときには、いつもZELのことを気にかけて声をかけていただきました。長谷川さんの60歳のお誕生日には、ZELで還暦祝いをさせていただきました。画像は長谷川さんとゲンが並んでケーキの蝋燭を消す様子です。

あの時の長谷川さんの楽しいトークは今でも私たちの思い出です。長谷川さん、ありがとうございました。そして安らかにお眠りください。いや、長谷川さんのことだからその魂は今でもアクティブに動いていらっしゃるんでしょうね。

 

大村朋子

長谷川博史さんと国際エイズ会議の仕事で知り合って、まもなく30年になります。思い出してみると、合わせても10回くらいしか会っていませんよね?。ところが会う時にはNHKの番組用の長時間のインタビュー撮影だったり、生放送のスタジオだったり、きちんとしたご自宅だったり、ノリノリのピンク・ベア状態(笑)だったり、事務所だったり、ご自慢のお兄様の展示会の場だったり、窓の大きな病室だったり。車椅子になっちゃたよぉ〜。緊急搬送されちゃったよぉ〜って。二人きりが多かったので、静かに話すことが多かったですよね。おそらく私は長谷川さんの多彩なお顔を拝見できた幸運な人間の一人なのかなとは思います。ただ、残念なのは私が「ノンケ」で、長谷川さんはお兄さんのようなお姉さんのような。ただの取材先ではなく、かと言って友達でもなく。一生懸命理解しようと思ったけれど、長谷川さんにとっては私は「仲間」でも「同志」でもなく。長谷川さんの悩みをいっぱい聞きながらも”共有”させてもらえなかったことに尽きます。いつも沢山お話を伺いながら、励ましてもらったのは私だけで、透析が始まってその時間が大変だった時も、足を失うことになった時も、甘えてもらえなかったですよね。自分の無力さが悲しいです。長谷川さんが「ただのお友達」だったら、もっともっと人生が豊かで、もっともっと楽しかっただろうと思う。お別れのパーティー、呼んでくれますか?

 

はんきー

長谷川さん、長い間お疲れ様でした。東京と京都でずいぶん環境が違いましたが、
大きく影響を受けたのは「アドボカシー」という言葉と概念です。
その具体化を自分ながら考えてこれたのは、長谷川さんのおかげです。
でも、「熊夫人の告白」は自分の体験に重なり合うことが多くそうだったのねと思い多くのノンケさんに勧めたことも懐かしい思い出です。
長谷川さんがHIV陽性者として様々なところに影響を与え続けてきたことに尊敬を覚えます。
ずいぶん陽性者や取り巻く環境も変わりました。
空の上から陽性者がこんなことやってるんだと笑いながら眺めていてください。
ありがとうございました。

 

要友紀子

日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラスの設立者・長谷川博史さんに、哀悼の意を捧げます。
私の知る長谷川博史さんは、HIV/AIDSとともに生きる人々や、セクシュアルマイノリティ、ひいてはその中のさらに多様な属性を持つ人々の人権と健康が当たり前に守られる社会をつくるために、NPOなどの社会活動を通じて当事者たちやコミュニティの人々を支えるネットワークや仕組みを作ったり、ロビー活動にも常に熱心だった一方、クラブイベントや表現活動、当事者文化の場や時間をとても大切にする、エンパワメントと人間味にあふれた人でした。
私が長谷川さんと最後にじっくりお話したのは、故人・南智子さんの家にお線香をあげに行った2017年12月で今から約4年前くらいでした。そのときの帰りに、松沢呉一さんと長谷川さんと3人で長時間お店でいろんな話ができたのがすごく幸せな時間だった思い出です。私と長谷川さんは20年以上前からの知り合いで、お互いの活動が初期の頃から、HIV業界のいろんな場でご一緒させてもらってきた長谷川さんは、私の歩みを長期的にちょっと離れたところから見守ってきてくれた貴重な人でもあり、会うたびに活動のためになる話をしてくれました。
その後、そんな長谷川さんに、2019年のTRPのセックスワーカーフロートを見てもらえてよかったなと思い少し安心したのが長谷川さんとの最後の記憶です。
やはり長谷川さんとの思い出はなんといっても、90年代後半の、南智子さんなどがいて、二丁目のクラブでの思い出が、原点的な、原風景的です。やはり、エイズ業界のコミュニティは、東京は2丁目、関西は京都が聖地なのではないかと思います。
国際エイズ会議や国内のエイズ学会、ロビー活動のときはいつも長谷川さんがいて、会えば声をかけてくれてその都度何かためになることを教えて頂いて、いろんなことについて大切なことを私なんかと共有してくれるたび、長谷川さんが私たちセックスワーカーのこともコミュニティの中の一部と捉えてくれている気がして、うれしかったし、私はそういう気持ちで長谷川さんたちHIVポジティブの人々と共に生き、同じもの、同じ社会を目指していると思い連帯の気持ちでやってきました。
やはり長谷川さんは、運動、社会、人々の力を引き出し、作る人だったと改めて思います。
長谷川さんを通して、私の人生にとってかけがえのない人々と会う機会も増え、すごい収穫というか、財産だし、長谷川さんに会えなくなってしまったけど、これからも、私の知らない長谷川さんのこと、長谷川さんが話してたことを、共通の知り合いやお友達から聞いたりするのも楽しみで宝物で、長谷川さんがネットワークを広げて大切にしてくれたおかげと思います。
なので、私より長谷川さんの魂を受け継ぐ人たちに、またときどきいろいろ教えてもらいますので、長谷川さん、ありがとう。

G-FRONT関西

長谷川博史様のご逝去につきまして、謹んで哀悼の意を表します。
長谷川様より当会は活動の上で多大なご理解とご協力を賜り、2006年に「ゲイとして生きる~昭和から平成へ~HIV・クリエイティブワーク・コミュニティ」と題してご講演をいただきました。ご講演は、ピンクベア / ベアリーヌ・ド・ピンクのお名前のもとでされた
ものも含むご活動についてお話をいただきました。時にはご著書『熊婦人の告白』(ポット出版)に収録された詩を朗読されなら、生い立ちから始まり、HIV/AIDSに関する活動、それに基づく著述家・ゲイ雑誌編集者としてのクリエイティブワーク、ゲイカルチャーの振興、コミュニティの活性化の取り組みなど、多彩な活躍をご紹介いただくと共に、差別とセックスフォビアの構造、セクシュアリティ・ゲイアイデンティティについての考察をご説明いただきました。ご講演から15年が経ち、ようやく社会が長谷川様のお考えに追いついてきたと感じさせる部分もあります。
長谷川様のご足跡は、当会の活動においても、永く伝えてゆきたいと存じます。

 

畑野とまと

27年くらい前…『熊親父』という変なハンドルの人とNIFTYのチャットで知り合って…あれからずいぶんたって本当、その熊親父が広げてくれた輪がめっちゃ広がりました。
あたしは熊ぱぱ(長谷川さん)とT梨に出会っていなければ、トランスジェンダーカフェの開設をしていなかったかもしれないし、今のように活動家なんて名乗っていなかったと思います。
当時はデビューしたてのニューハーフヘルス嬢で、本当いっぱいいっぱいだった日々で、それでも熊ぱぱに色々なことを教わって、色々な人を紹介されて…。
いまSWASHのメンバーでいるのも、元はと言えば長谷川さんに要ちゃんや、ブブちゃんを紹介してもらったからで…。とにかく、声あげなきゃダメだって思うようになったのも、たぶん熊ぱぱの背中を追っかけていったのだと思います。
「私はワタシ」「Queer Japan」二つの映画に出ることになったのも、あのとき熊親父とチャットしたからです。
G-menの対談で「田亀源五郎、南智子、畑野とまと」という…あたしだけが「誰やねん」状態な場を企画してもらったり(対談時にはもちろんお友達でしたが…。)そんな南さんは一足先にそちらに言っているので、是非声かけてください。
コロナが落ち着いたらご飯行こう!って言ってましたよね…。まぁ、もう少しあたしもこっちに居たいので、そっちで色々な人と待っていてください。そのうち、あたしもそっちに行きますから…。

この写真は99年に大阪で行われたピンクベアカフェの一コマです。大阪でピンクベアカフェやるよぉ!って話を聞いて、旅行がてらおでかけして。メイクする熊ぱぱから「とまとぉ、ちょっとアイライン書いて」って頼まれたのを覚えています。
イベントが終わったあとに、面白い所つれて行ってあげる!と言ってつれていかれたのがMIX ROOMで…当時G-menで漫画連載していたミロさんと初対面になるわけで…。

 

Photographer Toboji

気がつくといつも隣にいて、サラっと勇気づけてくれる言葉をくれる人でした。

2017年、長谷川さんがピンクベアとしての最後の女装をされたときに品川の劇場でご一緒出来たことは最高の思い出です。どうかそちら側でも楽しく過ごせますように。

 

鈴木款

ゲットインタッチの活動に携わって2年。長谷川さんとお会いしたのは昨年の「月夜のからくりハウス」の会場ロビー。それが最初で最後となりました。

「私はワタシ」を拝見していたので、いつかお会いしたいと思っていたのですが、長谷川さんはまるで数十年来お付き合いした人のようにフランクで、優しい方でした。もっともっとお話をしたかったです。いま虹の向こうでお元気にされていると思います。ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

勇者けんくん

僕が初めて長谷川さんとお会いしたのは、確かスピーカー研修会の飲み会やったと思います。第一印象は「こんなにゲッソリしてガリガリのオジさん…大丈夫?」でした。その頃にはもう、透析もされていたと思います。しかし長谷川さんの「語り」はとても熱くそして力強いものでした。温かい眼差しやその笑顔とは裏腹に、信念を感じさせる方でした。その後、何度かお会いしましたが、一番心に残っている長谷川さんの言葉は「セックスはファンタジー」です。その頃の僕は若すぎてその意味が分かりませんでしたが、僕自身が50歳近くになり人生を振り返ってみると、その言葉が身にしみて理解できます。

人生の先輩。
ゲイの先輩。
HIV陽性者の先輩。
いつまでも忘れません。

 

村木 真紀

団体運営からプライベートまで、長谷川さんには色んなことを相談してきました。長谷川さんが足の切断をした時も、病院にお見舞いに行ったのに、結局、私の方があれこれ相談してしまった位です。虹色ダイバーシティがここまで続いたのも、長谷川さんの励ましがあってこそです。

まだお電話したら繋がるような気がして実感が湧きませんが、長谷川さんの、ユーモア、毒、笑顔、強さ。忘れません。

 

奥村兼之助

プロジェクトでお仕事をさせていただいていた時、誌面の素材撮りでご自宅にお邪魔した際に、撮影に用いたお手製の料理を撮影後、ご馳走になった日のことを今でもつい先日の出来事の様に鮮明に覚えています。
長谷川さんは、僕がこの世界でたった2人の「師匠」とお呼びする方のお一人でした。
その思想・発想は僕の中で常に新しい視点を生み常に感化され続けていました。
長谷川さんの僕への口癖は「元気そうでよかった」と「アンタはまだまだね」でした。
僕の行動とその結果に決して満足するなという僕の「甘えた根性」を見抜いた上でのハッパだったと思ってますが案外、本音だったのかも…とも思ってます。

これからも、長谷川さんの口癖を耳の奥で、事あるごとに反芻し、これからの活動の源としていきたいと思います。

本当にありがとうございました。
そして、お疲れ様でした。

 

ケンジ

1994年。バー「タックスノット」を知り何度か通ううちに店内で作品を展示する機会をもらい、それを見た編集者がぼくの作品に興味を持っていると店主から長谷川さんを紹介された。
長谷川さんから「バディ」編集部に呼ばれ、ぼくが描いたゲイ漫画の講評を受け、商業ゲイマガジンに載せられるような作品を描くようアドバイスを受けた。
ぼくの描きたい内容と長谷川さんが載せたい内容が合致せずその話は流れたが、その後「バディ」からカットなどの仕事をもらうようになった。ほどなく長谷川さんは「バディ」を離れ「G-men」を立ち上げた。ぼくが描きたいものと「G-men」が標榜するものにほとんど接点はなかったが、長谷川さんは「G-men」からも時々カットなどの仕事をくれた。
そのうち長谷川さんからの仕事はなくなり、個人的に連絡を取り合うようなつながりも持っていなかったので、そのまま時は流れた。
数年経ってプライドパレードの見学に代々木公園に行ったところ長谷川さんとばったり出会った。互いの近況報告などをする中で自身の病状について本人から端的な報告があった。
長谷川さんは終始笑顔で、その頃はぼくもHIV/AIDSについての知識をある程度持っていたので、とはいえ長谷川さんはそのことについて他者(ぼく)にあれをして欲しいこれをして欲しいというような要求をしなかったので、ぼくは事実を事実として受け止め、それ以上でも以下でもない会話を終えてその場を離れた。
長谷川さんはぼくをゲイ雑誌に招いてくれて、その後数年間その界隈をうろうろする機会を与えてくれた人だ。
「バディ」の編集部で聞いた長谷川さんのセックスに対する正直で赤裸々な話は忘れられない。当時のぼくはすでにうぶな人間ではなかったが、その内容に違和を覚え共感はできなかったものの、違う広がりを持つ人がいるという認識を持たせてくれたことに感謝している。

 

がっきー

長谷川さんがおうちで出してくれた大判焼きとあったかいお茶が美味しかったです。

 

Pico

コロナ前は、毎年のエイズ学会のタイミング等で定期的に交流させて頂いていました。
お会いするたびに、長谷川さんから愛ある𠮟咤激励を直接して頂いたのを忘れません。
コロナ禍になって、長谷川さんの活動はFacebook経由で知ることが中心になりました。
陰ながら、長谷川さんが元気に活動できますように、と心で応援し、病状が悪くなりませんように、と遠く大阪から祈っておりました。
私の感染が分かった15年前、大阪でのエイズ学会に併せて行われた「陽性者交流会」で初めて長谷川さんにお会いしましたね。
ピアの仲間として温かく陽性者の輪の中に入れて頂き、長谷川さんが生き生きと活動されている姿が、今でも思い起こされます。
その時に「長谷川さんのスピリッツ」を伺ったのを、決して忘れません。
長谷川さんからのバトンを、勝手ながら受け継いだと思っております。
初めて長谷川さんにお会いした直後より、私は大阪のとあるNGOでボランティアピアスタッフをしていました。
しかし、そのNGOでの活動も数年で終了。
10年近くのブランクを経て本年度になって、私は本格的に、ぷれいす東京さんのボランティアスタッフとして、大阪在住でHIV/AIDSに関わる活動を再開しました。
長谷川さんとお会いしてこの報告を行いたかったのに…報告できないまま、長谷川さんの訃報に接しました。
15年前に受け継いだ「長谷川さんのスピリッツ」「長谷川さんのバトン」を、ピアの仲間にも渡してゆきます。
今まで全力疾走してこられましたので、天国ではゆっくりお休みください。
そして、スピリッツとバトンを受けた仲間がちゃんと活躍しているか、たまには天国から見ていてくださいね。

 

MICK

お宅にもお邪魔させていただいていろんな話を聞かせてもらいました。最近は会ってなかったので、急に訃報を聞いてもっともっと話しておくんだまたと後悔しています。長谷川さん、まだ亡くなるのは早いですよ。でも苦しまずに亡くなったとお聞きし、そこだけは良かったと思っています。安らかにお休みください。

 

佐藤勇一郎

認めたくない知らせを受けて一日半。JaMP+のホームページでも正式発表され、多くの追悼の意が表され、ご家族が公に発表されている限り、長谷川さんが亡くなった事実を嫌でも認めなければならないようです。自分自身がコロナに感染して自宅療養中という事もあってか涙を流す余裕がありません。ただ呆然とするのみです。どうしても言葉が出て来ません。ごめんなさい。

 

田村佳弘(松田金時)

本当に長年お疲れ様でした。
いつも困った時にご相談させていただいていました。
某雑誌のデザインでお世話になり、よくビルのエレベーターでお会いしてお話ししたり、ご自宅で手料理をご馳走になりました。

ここ数年、私はマイノリティ関連とは距離を置いており長谷川さんの連絡先も封印してしまっていました。
先日、どうしても長谷川さんとお話ししたくなり知人にお願いして長谷川さんと長電話する事ができたのでした。
それが2月26日の事です。
開口1番「どうしたー? 今度は何があったー?」と聞かれました。
「今の私は幸せです」と答えましたら「良かったねー」と喜んでくださいました。
その後色んな話をして「今度、またお話ししましょう」と言って電話を切りました。
まさか…それが最期になるとは思いもしませんでした。
とてもショックですが、最期に【幸せ】のご報告ができたのがせめてもの救いです。
今はきっと天国でたくさんの方とお話ししているでしょうね。
長谷川さん、あなたはいつまでも私の【心のお母さん】ですよ。
ありがとうございました。

 

村松 崇

お悔やみ申し上げます。長谷川さんは、とても誇り高い方だったと思います。知識と行動力が、その自信を作り上げたのだと思います。かなり早いときから実名や顔を出して活動して、私を含め多くの人を前進させる道を示してくれました。スティグマやさまざまな問題も、彼の中ではすでに乗り越えていて、社会がずっと遅れてついて行っているようでした。もう話すことができないのは残念ですが、残してくれたものを大切にして遅くとも前進していきたいと思います。ありがとうございました。

 

玉井 収

ご縁があり、2016年にお会いしてHIVと透析医療について多くを学ばさせていただきました。大きな糧となり大変感謝しております。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

奈奈

渋谷駅で初めてお会いしお話しさせていただいた時の優しい笑顔。心がホッと暖かくなった事が忘れられません。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

KATSUTO

長谷川さんとは、元カレを通じて知り合った。
それからなので、23〜24年位のお付き合いでした。
私が主催していたプライドグループ座談会に『HIV啓発』の講師としてお招きして、お話しをしていただいたこともありました。
打ち合わせで、四谷の交差点のインド料理屋、二丁目の小料理屋、等等…、色々と連れて行ってくれて、いろんな話をしてくれた。
「 ジャンププラス 」を立ち上げている時には、新宿御苑の横の通りにあった事務所に呼ばれたり遊びに行ったりで、構想を色々と話してくれた。
でも、構想の話よりも、郷里のお兄様の発明(?)した、「 急須 」の話の方が多かったかな…。
構想といえば、こんな事もありました。

長谷川さん:
「二丁目に(ニューヨークだか何処だかにあるような)『HIVの啓発センター』を作りたいんだよ」(主旨)
「新宿区の行政に繋がる誰か紹介してくれないかな」(主旨)

と、頼まれて、都議会議員経由で、新宿区議会議員を紹介して、長谷川さんに同行して新宿区役所へ行ったのを思い出します…。
此の時の構想が後々のaktaに繋がっていったんだなぁと思っています。
長谷川さんとは一緒に活動はしていないけど要所要所で濃い思い出が多い…。
長谷川さんの女装「ピンクベアリーヌ」の誕生デビューステージ、ステージに上がる前の物凄く緊張している姿もイベントのお手伝いで間近で見ていた。
長谷川さんが大きな外科手術をした時、元カレとお見舞いに行ったら、お洒落な長谷川さんが髪の毛が伸び放題ボォーボォーでボヤいていたので、帰宅後すぐに、身の回りのサポートしている方に連携を取り病室で出張カットしとても喜んでもらえた。
大手術後で、一つ一つの動作が大変な中それでも、僕のことを凄く気遣ってくれた…。
今になっては、懐かしい良い思い出です。
自分が大病を患い退院してきてから再びLGBT活動に戻り、活動していれば、いつか長谷川さんには何処かで会うだろうから、わざわざ挨拶に行かなくても
良いかなと思っていたら…。なんか、こう書くことによって、自分の心の整理をしています…。
長谷川さん、とりあえず、ありがとう。
合掌

 

つるぎようこ

私のような者でも覚えていて下さり、ご連絡差し上げれば、いつも優しく受け入れて下さりありがとうございました。ご冥福をお祈りします。また会いたいです!

 

佐藤真康

HIV/AIDS啓発のデジタルコンテンツを制作する際に、とてもお世話になりました。長谷川さんにはアニメで登場もしていただいています。初めて会ってお話をしたとき、とてもインテリジェンスな人だな〜と感じました。この世界ではレジェンドでしたね。心よりご冥福をお祈りいたします。

 

中澤 晃

aka lonestar 初めて会った夜のことを鮮明に覚えている。神宮前のバーで飲んだ帰り、彼を送っていく車中で彼の病気のことを聞いた。それ以来は濃淡はあったが彼のライフパートナーとしてこころの片隅に存在させてもらっていた。そんなに手伝うことが出来なかったが、雑誌の創刊、団体の設立のときなど長い時間、彼と話したことをつい最近のように思い出す。

長谷川さんの仕事でどれだけの人が救われたか。
本当におつかれさまでした。いまはゆっくりやすんでください。

 

高田由美佳

長谷川さんからいただいた言葉に「病気でも健康」というものがあります。製薬会社に勤める私にとって、病気を抱える人を見る目が変わった、大きな言葉です。一般的な健康の定義は身体が健康でかつ精神が健康というものですが、身体が健康なのは、果たして「健康的な気持ちや生き方」の必要絶対条件なのか、いや全く別物なのではないかと。急性期は闘って治す方に集中するけれど、慢性化したり長期化すれば、闘い抗う視点から距離を置いて「病気でも健康」って可能なんだよね〜と気持ちを切り替える。すなわち病気の見方が変わる。そうなると人生そのものが別物になっていきます。
長谷川さんから教わったことは病気の捉え方だけでは勿論なくて、自分の女性性や男性性を深く見つめること(詳細は名著『熊夫人の告白』にて)、急先鋒でありながら根が優しく、本当の意味で他者を切り付けることができない人間性の大切さ(これが私にはない)等々。

3年ほど前に父が亡くなってつくづく思うことがあります。死者は生前よりもより強く、残った者に影響を与えるということです。「長谷川さんだったらどう言うかな」「長谷川さんだったらどう考えるかな」日々沢山の「子どもたち」がこんな風に長谷川さんに会い続けるのだと思います。長谷川さん、生まれてきてくださり、ありがとうございました。

 

wAcKyosaka

素敵な笑顔をありがとうございました❤️

 

智行

勉強会やデリバリーボーイズで長谷川さんのお話を聴くのが楽しかった。
もっと聴きたかったです。
ご冥福をお祈りいたします。

 

斉藤千佳

私が東北大学医学系研究科で教えていた時、FASID(国際開発高等教育機構)の平成19年度ケース・ライティング・ワークショップでスティグマ・差別の課題をとりあげるべく、長谷川さんにインタビューを申し込んだ。長谷川さんと最初にどこでお会いしたのかは覚えていないが、長谷川さんのお話しを伺って書いた原稿を長谷川さんにチェックしていただくために送付したメールと長谷川さんからのお返事が、現在も使っているメールのフォルダ―にとってあったのがみつかった。「私もこの問題に関しては改めて文章化しなければと思っていたところであり、できればそれをどなたかに英訳していただく必要を感じておりましたの で、完成を楽しみにしております。」というお言葉をいただいていた(https://www.fasid.or.jp/case_library/2_index_detail.php#jpn のE-18-07)。
さて、インタビューを申し込んだらまず熊夫人の告白を読むことという宿題が出た。慌ててネットで本を買った。そして新宿でゆっくりお話しを伺った。スティグマ・差別を受けることへの想いなどをお聴きするイメージで行ったが、お話しは次元が違い、もっと根本的で深いお話で、まさに目から鱗だった。白黒はっきりさせる文化とそうでない文化、政治家の失言は何故起こるか…その後長谷川さんには東北大で特別講演を行っていただき、また長谷川さんのお話をもとに数年に渡り毎年医学入門の講座の一環として同じテーマで講義とグループワークをさせていただいた。数多くの学生や関係者、そしてなによりも私にいただいたとても大切なメッセージは、これからもずっとみんなの中で生き続けて、伝わり続けていくと思う。長谷川さん、改めてありがとうございます。

 

畑 智章

私にとっての長谷川さんは、舞台に登場するベアリーヌ・ド・ピンクでした。

当然舞台の外の長谷川さんの編集者としてのご活躍やHIV陽性者支援の活動家としての姿は知っていましたが、それでも舞台に登場するベアリーヌの、卑怯なほどの異形の姿は、長谷川博史という実在の存在を突き破った何者かの姿として、強烈な印象を私に残しました。

私にとってベアリーヌを被写体にする瞬間が自分の人生にあったことの幸福を噛み締めながら、この写真を皆様と分かち合いたいと思います。

 

ガク

「さくらさくら/センチメンタルジャーニー」
今でも脳裏に残っています。
詩の中で詠った人たちのもとにあなたは今旅立ちましたが、まさに詩の中で、今度はあなたが生き在ろうとしています。
G-menやJaNP+などさまざまな開拓者であると同時に、あなたが拓いてきた道(ルート)ではさまざまな人たちが出会い、それぞれが希望を紡ごうとしています。その一つのルーツがまさにあなたの生き方であったことを忘れません。
良い旅を!いつかまた会いましょう。

 

星野晃代

長谷川さんの生き様素敵でした。
詩人。口ずさむ声。
優しさでいっぱいでした。
大きなを愛ありがとうございました。

 

手島美衣

長谷川さん、これからも「長谷川さんならどうするだろう?」って考えながら生きていきます。
これからも印税が少しでも入ったら、HIV支援団体に寄付していきます。
本当にありがとうございました。

 

シンプソン

いつも優しく穏やかに話をしてくださいました。さまざまなことを学びました。これからもお話が聞けると思い込んでいました。心の中がポッカリと空いたままです。まだ現実を受け止めきれていないのかも知れません。心から哀悼の意を表します。

 

メモリアル・キルト・ジャパン(MQJ)寺口淳子

榎本てる子さんから紹介されて長谷川さんにお目にかかったのはいつだったでしょう?
1994年横浜エイズ国際会議よりは前です。何度か東京まで行って。AIDS&Societyのフォーラムでも。最初、メモリアルキルトのことを「もう役割は終わったんじゃないかなあ〜」と言われて、いやそんなことはない、と活動内容を説明したかな?HIV陽性者に利用して貰えるテディベア基金は、たとえ少額でもありがたいと言ってもらえました。「僕はピンクベアだけど」と、とっても可愛いTシャツを買わせていただきました。
写真集大好きでした。トークの集まりにも参加しました。被写体になることがウンヌン〜と難しく言われて、でもはにかみつつ喜んでおられたと思います。
2005年ICAAPの時は準備の会議から何度も神戸へ来られ、大役を果たされました。この時「メモリアルキルトの展示は必要だね」と言ってくださったのがとても嬉しかったです。
榎本さんが企画して長谷川さんを京都へ呼ぶ会のため、車椅子で来てくださったのは何年前?「会えるのはこれが最後かしら?」と言われ、FBもメールもあるし、何時でも会えます!と返したものの、何度か「気づいたらICUのベッドで〜」とのメールを、本当に驚き、心配して見ていたことでした。言葉にならない悲しみを感じています。でも何かメッセージを送りたいと投稿しました。本当に頑張られましたね。てる子さんと冗談ばかり言い合っていますか?
ご冥福をお祈りいたします。

 

源さん

私の感染が判明した1996年からのお付き合いでした。
嬉しいこと、辛いことがあるたびに電話してました。
長谷川さんは冷静にこちらの心理や行動を分析していつも的確なアドバイスをしてくれました。
相方ができて報告をした時に「あんた達は我の強い者同士なんだからケンカしたらメールでもなく、電話でもなく、会って話をしなさい。よく覚えておきなさい。」と言われました。
お陰さまで、なんとか相方と15年うまくやってるよ。
天国でのんびりしてくださいね。
頂いた急須、大切に使いますね。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。

 

川守久栄

長谷川さんには2021年ドラァグ・クイーン・ストーリー・アワー東京の撮影の際、お世話になりました。本来ならメディアの取材はお断りとのことでしたが、私どものリクエストを受け入れて下さり、大変感謝しております。長谷川さんをオンラインのミーティングで数回お見かけし、またLiving Togetherの動画でもお見かけしましたが、その豊富な知識と知性、詩人らしい優雅な語り方に魅了されました。もっとお話が聞きたかったです。今更ですが長谷川さんの記事を色々と読んでおります。特に読売新聞に語られたご自身の半生に心打たれました。生涯に渡り人の為に御活躍されたのですね。ご冥福を心よりお祈り致します。

 

金丸正城

長谷川さんがついに逝ってしまった。自分の終わりを想像する歳になった今、あっぱれとしかいいようのない生の納めかたでした。
昨年(2021年1月)私の長年のパートナーであり詩人の相澤啓三も91歳で亡くなりました。
生前長谷川さんとは彼の詩を深く理解してくれる読者として啓三とも懇意にしていただきました。啓三の死後残された歌稿ノートを遺歌集として出版しましたが、その中に長谷川さんの歌が一首有りました。
また2016年出版の歌集「音叉の森」にも長谷川さんを国立医療センターに見舞った折の歌5首を「アクティヴの遍歴」として収めています。
それらを長谷川さん追悼としてここに掲げさせて頂きます。

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相澤啓三
歌集「音叉の森」(2016年 書肆山田刊)より

アクティヴの遍歴 (5首)
ー NPO日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス元代表長谷川博史兄を国立国際医療センターに見舞う ー

*「生かすなら生きてやろう」と二回り細身となれるパフォーマーは言う
*思い溢れて言葉につまるわれを措(お)いてきみはやさしく事を確かむ
*片脚を去りて意識の混濁が晴れりと言ひぬ意識高き者が
*アクティヴの遍歴のみが資産なれば支援グループにすべてをさらす
*新宿の空暗澹(あんたん)と窓にあれど若き支援者は気負いを見せず

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相澤啓三
歌集「羊歯の谷間に」(遺歌集 / 2021年 書肆山田刊)より

*パフォーマーなりし長谷川君の車椅子きれ鮮やかに成子坂馳(は)す

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注:括弧内のフリガナは金丸が追加したもので、元々の歌にはありません。

 

岡元利通(ユタカ)

突然の訃報に接しビックリしております。
研修会、その後の飲み会などで幾度かお会いし、お話していただいたことが昨日のように思い出されます。確か最後にお会いしたのは大阪だったのではと思います。あの時もハードなスケジュールをこなされてました、車椅子での長距離の移動、お疲れだと思いましたが微塵にも顔に出さず、いつものあの笑顔でみんなに話しかけられ、どれだけ勇気をもらったか…。
今はご冥福をお祈りするばかりです。でももう一度お会いしたかった。
ありがとうございました。
合掌

 

Yoko Akiyoshi

2017年「月夜のからくりハウス〜平成まぜこぜ一座〜」練習会場を後にする長谷川さんを撮影しました。義足に靴を履かせる長谷川さん

 

Yoko Akiyoshi 2017年「月夜のからくりハウス〜平成まぜこぜ一座〜」にベアリーヌ・ド・ピンクとして出演し詩を朗読する長谷川さん

 

Yoko Akiyoshi 2017年「月夜のからくりハウス〜平成まぜこぜ一座〜」出演時の長谷川さん

 

Yoko Akiyoshi 2017「月夜のからくりハウス〜平成まぜこぜ一座〜」出演時の長谷川さん

藤田 美土里

長谷川博史さま、昨年のエイズでー礼拝でお話くださり感謝しています。あの日、冬の雨が寒さを一層厳しいものにしていました。遠くの会場まできっと大変だったことでしょう。でも、あの時の優しい笑顔が今でも思い浮かびます。私たちの足りなさに気づきを与えてくだるため、駆けつけてくださいました。もっとお話がしたかった…、残念な気持ちは残りますが、心より魂の平安をお祈りいたします。

 

しょうご

いつも話を聞いてくれてどうもありがとうございました!いつかこの時が来るだろうと思っていましたがやっぱり実際に来てしまうと悲しいです(またスグに会えると思っていたので)長谷川さんの意志を継いでHIVの活動を頑張っていきます!本当にお疲れ様でした!

 

HIGUCO

長谷川さんの勇気ある行動は、多くの人生を変え、多くの命を救われて来たと思います。私もの間違いなくその一人ですが、直接お礼を申し上げる機会と勇気がなかったことを悔やんでいます。心からご冥福をお祈りします。どうぞ安らかに。

 

大槻知子

たとえ厳しい意見をおっしゃるときも、まなざしが穏やかで優しかったのが印象的でした。
そして、声がとても、とっても素敵でした。
初めて朗読を拝聴したときのこと、今でもはっきり覚えています。
どうぞ安らかにお眠りください。

 

LGBT法連合会 一同

故・長谷川博史様のご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。
長谷川さんは、2015年度にLGBT法連合会が創立を迎えた時から、4人の初代顧問のおひとりとして、常に私たち後進の活動を陰に日向に支え、励ましてくださいました。
いまの日本に「差別をなくすための法整備」が必要なのは、「そこにまだ歴然と、差別があるからなんですよね」。2021年のLGBT平等法(Equality Act Japan)キャンペーンのインタビュー動画の中で、長谷川さんは淡々と、しかし決然たる意志を秘めた眼差しで、社会へと語りかけてくださいました。これまでの日本社会で、HIV陽性者の方々、同性のパートナーに先立たれた方々が直面を余儀なくされた困難な現実を、誰より直視してこられた方のおひとりであったからこそ、平等を希求する長谷川さんのメッセージは、これからも多くの人々の心に、深く、強く、響きつづけることでしょう。
また、よりよい社会をめざして日々奮闘しながらも、仲間と共にあることの楽しさや喜びを決して忘れず、さまざまな違いをこえて手を携え一緒に前へと進んでいくことの大切さを、長谷川さんは示してくださいました。今も目を閉じれば、色とりどりの仲間に囲まれながら、こぼれるような笑顔で「やあ!元気~?」と手を振ってくださる長谷川さんの姿や声が、おのずと思い出されてなりません。
ここに、長谷川さんのご生前の多大な功績に心より敬意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

asca

長谷川さんとの思い出はたくさんあって書ききれません。でも、遊びに行くたいがいのイベントには長谷川さんがいつもいて、他愛もない話をしたり、半分くらいはお説教されて、楽しく背筋が伸びる時間でした。去年の学会での力強く艶かしい、熊夫人の告白。終わって、次いつ会えるかわからないから…と握手とハグをして、それが最後になってしまいました。これから旅立つ先は、きっと見知った顔のみんなが出迎えてくれて、寂しくないですね。どうか、空の上で私たちを見守ってください。ありがとうございました。

 

コーダイ

長谷川さん、今までたくさんお世話になりました。
長谷川さんから、ゲイの世界の楽しみと、ゲイとして外の世界と関わる楽しみを教えてもらいました。
対等な目線で、暖かい眼差しで話してもらったことが尊い時間だったと、今更ながら思います。
ありがとうございました。
また会う日まで。

 

宙太

遅咲きの当事者としてぷれいす東京のボランティア研修に参加するため東京に向かった令和元年の夏。ずっとお会いしたかった長谷川さんと初めて「九州男」でお会いすることができました。長谷川さんと九州男のまっちゃんがお話し中に、松中権さんもご来店。まっちゃんに手招きされて、大御所の皆さんとの一期一会。ゲイ認知のグローバル化で日本のゲイプライドの高まりを感じる一方、地方に住む HIV+ゲイは未だにポジティブ気分になれない環境の中に埋もれています。長崎生まれの長谷川さん。福岡生まれで現在は別府(大分)に生息中の宙太。九州の田んぼを生かす力になれるよう、宙太もチュウくらいに活動して逝きまうす。ね!🐭♥️

 

まぁちゃん

長谷川さんには、たくさん愛のムチをいただきました。キビシイな〜、しんどいな〜って思ったりもしたけど、愛が無ければ、あんなにハッキリダメ出しなんてしてくれないと思う。長谷川さんが喝を入れてくれたおかげで、私の欲しかった最高のしあわせ=”愛にあふれた家庭”を持つことができたよ。ありがとう、長谷川さん。安らかにお眠りください。そしてまた生まれてきてね。

 

Kio Yamamoto

長谷川さん、大好きでした。
また会う日まで。

 

山口正純

長谷川さん、お疲れ様でした。色々と教えて頂き、有難うございました。
死ぬのはいつも他人ばかり。いずれまた、どこかで。

 

なをと

長谷川さんの家で晩飯を一緒に作って食べたこと、電話やメールで相談に乗ってくれた事、エイサーを踊っている姿を褒めてくれた事、感謝しても足りない位の愛と笑顔をありがとうございました。親友と言ってくれてありがとうございました。東京に行って長谷川さんにもう会える事が無いと思うと凄く寂しいです。「あんた、まだ若いんだからもっと楽しみなさい。」っていつものように笑顔で手を振っている気がします。


偉大な大先輩であり若造を親友と呼んでくれた長谷川さん、ありがとうございました。

 

べーすけ

いつも可愛がってくださって、ありがとうございました。まわりのみんなにフラットに接する姿、いつも素晴らしいなと思って見ていました。いろんなことで助けていただき、本当に感謝しています。

これまで忙しすぎたでしょうから、あちらでゆっくりしながら我々を待っててください。ちょっと待ってもらうと思いますけど、その時が来たら、またその笑顔で迎えてくださいね。

 

さとちん

太くてカタくて濃い時間を共有できてありがとうございました。寛容という精神を種付けされていようとわ(笑)ワタクシ未熟者でございましたわ。いま、長谷川さんと過ごした頃の年齢を越えもうすぐ還暦ですわ。職場やあらゆる場面で「しゃーねーか」と同じセリフを引き継いでいます。ホントにホントにありがとうございます。
最後に一言。
何よ!屈強なレスキューや救急ボーイに抱き抱えられて旅立つなんて!悲しみ通り越えて羨ましいっつ!最後まで魅せつけてくれたわあ。
もうすぐ会えますから。またね❤️

 

Shin-ichi

ずっと後ろから背中を追いかけていました。先頭に立って闘ってくれてありがとうございました。ゆっくりと休んでください。

 

小野雅之

何回もお会いした訳ではありませんが、いつも温かい励ましのおことば、ありがとうございます。「のど自慢」きっかけでしたが、お優しいお人柄、みなさんが、慕っていることがよくわかりました。もっと、たくさんお話して欲しかったですし、お話したかったです。お空でも、ご活躍されるかと思いますが、少しはゆっくりしてくださいね。
それから、今の世の中を、見守って頂きたい。人と人とが、関係性を意識しながら、思いやりの気持ち、心で、過ごせるように、助けてくださいね。

日々、寂しさが増してきて、苦しくなりがちですが、様々な活動を通して、精一杯、生きていきます。長谷川さまのご活躍には、到底、及びませんけれども、やれること、頑張ります。また、どこかで、お会いしましょ!なので、さようならは、言いませんから、悪しからず、です。ありがとうございます。

 

田口弘樹

初めて長谷川さんにお会いしたのは偶然居合わせたタックスノットでしたね。
あなたは当時G-menの創刊準備をされていて、僕は男の裸を撮り始めていた…その縁で創刊からグラビアを担当させて頂きました。
当初は良い結果が出せず右往左往している僕を辛抱強く見守ってくださいました。
そして撮影を重ねて行くごとに大切な事を沢山学ばせてもらいました。
深く感謝しています。
メッセージにTOKYO AIDS WEEKSで活躍するあなたの写真を添えるつもりでしたが保存したファイルが見つからないまま、締め切り日になってしまいました。
ごめんなさい。
「いーのよー、たぐりん。あんたの下手な写真見なくてすむわー。」
ニコニコしながら、意地悪風味のフォローをしてくれる、あなたの姿が目に浮かびます。
ありがとうございました。

 

佐藤哲彦

長谷川さんとは、榎本てる子さんの紹介で知り合いました。僕が計画したHIV/エイズのシンポジウムに来ていただいたのです。そのときは幼い時からの話も聞かせていただきました。その後「私はワタシ」の上映会にも来ていただき、以来いろいろお話ししてきました。コロナでしばらくお会いできませんでしたが、部屋に貼った「私はワタシ」のポスターを見るたび、長谷川さん、体調どうかな、どうしてるかなと思ったりしていました。訃報を聞いたのもまさにそのように長谷川さんの写真を見た直後でした。ショックで呆然としました。とても、とても寂しいです。長谷川さんはかつて僕らに言いました「生まれ変われるとしたら、またゲイで生まれたい」。大変なこともあったけど、それも含めてそう語る長谷川さん。僕らもまたそのように生まれ変わった長谷川さんと再び出会えることを願っています。これから僕らは、長谷川さんがいたから存在するこの世界をまだしばらく生きていきます。ありがとう、長谷川さん。

 

Y.O.

2002頃交際してました。
鳶の格好でコスプレしたり、フライングステージを観劇したりしてましたが、写真が1枚も無くて残念です。
今日、プライドハウス東京・aktaに伺いました。
20年間、長谷川博史さんに連絡しなかったのですが、今日、生島嗣さんに問い合わせたら、「引きこもりは一時酷かった」そうで。
連絡したら、鬱・切断の可能性が少しは減らせたかもと悔んでいます。

 

ひろぱげ

長谷川さん。いつも会うたびに「ひろぱげ」「ひろぱげ」と可愛がってくださいました。
ここ数年はお会いできず残念でした。「とんかつ食べに行こう」と言っていたのに、これも結局行けずじまい。今頃、思う存分美味しいもの食べているでしょうか。

写真は、足の切断手術のすぐ後、お見舞いに伺った時のものです。傷の痛みからか、体調の悪さからか、珍しく弱気な感じでしたが、おもわずおならされた時に、「あ、この人は大丈夫だな」と思ったのでした。
長い間お疲れ様でした。ありがとうございました。

 

ウニコ

一言では言い切れないほどの、たくさんの恵みを分けてくださいまして、本当に感謝しています。
ありがとうございました。

 

小野 春

いつも場の中心を見ると、長谷川さんがいらっしゃる。圧倒的な存在感の、コミュニティの顔でいらした長谷川さん。沢山の人に囲まれていて、なかなかお話できたことはなかったけれど、いつでもいてくださると思っていた大先輩が旅立たれて、心細く思います。
ご冥福をお祈りします。

 

かご

長谷川さん、ピヨピヨの大学生だった私を温かく見守り、応援してくださってありがとうございました。HIVのことに関わり、色んな仲間、大人に会えたこと、新しい社会の見方を知ったことは人生の宝物だと思っています。知的で器の大きい長谷川さんに少しでも認められてもらいたい気持ちと、自分の小ささを見破られたくない気持ちで、小賢しく振る舞ってしまったけど、もっと素直に長谷川さんの懐に飛び込めばよかったなと思います。卒業以降、お会いする機会がないままでしたが、人伝にお元気なご様子を伺ってうれしく思っていました。この日が来るなんて信じられません。長谷川さん、これからもどこかで笑顔でお過ごしください。私も長谷川さんを思い出しては、温かい気持ちで過ごしていきます。

 

まきはら

長谷川さんは、お会いすると声をかけてくれ、人見知りな私はいつも助かっていました。世話焼きおばちゃんのお小言もありましたが、ありがたかったです。昔、入院中の外出時に、制限されてたお菓子やらおはぎやらを、こっそり病室に持ち帰った共犯はいい思い出です。色々と大変だったと思いますが、いいお友達がいてよかったですね。ゆっくりおやすみください。

 

いまむらなな

JICAの研修でお世話になりました。自分の身に起こっていることを包み隠さず話してくださり、誠実さが伝わってきました。また、笑顔の優しい方でした。長きにわたるご活躍、大変お疲れ様でした。長谷川さんののこしたものはそれぞれの場所、人の中に生き続けます。私も絶対忘れません。心より感謝申し上げます。ありがとうございました。どうか安らかに。

 

ぶん

優しくて賢くて色気もある長谷川さん、ピンクベアさん、ありがとうございました。
透析先を探して、病院3か所に電話するも撃沈した私の報告に、長谷川さんがかけくれた言葉、様々な事情と共に生きている子どもたちへの性教育企画案に長谷川さんが呟いてくださった大切な視点、無知な私に本当に惜しみなく教えてくださった長谷川さん、ありがとうございました。大好きです。

 

TAK

20年ほど前に榎本てる子さんのご紹介でお会いしました。常に気高く、旗を振りながら先頭に立つ姿にどれほど励まされたかわかりません。私たちに希望の光を見せてくれたあなたに、心からの敬意と感謝を捧げたいと思います。本当にありがとうございました。

 

伊達しゅん

 

 

梶原

長谷川さんに大変お世話になりました。プライドパレードで次はお目にかかれると思って慢心してました。いつかは来ないのですね。JaNP+の事務所でお話させていただいたこと、荒木町でご飯食べた日、aktaに連れて行っていただいた日、ピンクベアーさんの本を忘れません。
I love you.
安らかに過ごせますよう、心からお祈り申し上げます。

 

砂川秀樹

ここ数年ずっと、今度、長谷川さんに相談してみよう…と思うことがいくつもありました。でも、結局、話せないまま…。でも、折々に話したときの言葉や、長谷川さんの生き様を思い出すとき、その回答が浮かぶようでもあります。だから、これからも、何かあるたびに長谷川さんのことを思い出していきます。私たちに、たくさんのものを残してくださって、ありがとうございます。

 

平良愛香(あいかちゃん)

僕はマッサージが得意なので、長谷川さんに会うといつも肩を揉んでいました。「いつか愛香ちゃんともセックスできたらいいね、と話していたけど、機会があったらむしろマッサージしてもらいたいと思うようになった」といつごろからか言われるようになっていました。いつも深いエロトークで盛り上がったので、いつ頃からか「エロ牧師」という素晴らしい尊称で呼ばれるようになりました。(誰がそう呼び始めたかはよく覚えていませんが、広げてくれたのは長谷川さんでしたね。おかげで多くの人が僕と話しやすくなったようです。嬉しいです。ありがとう!)

 

柏崎正雄

神戸会議(ICAAP)でご一緒に活動してから、ずっとあらゆる場面でお会いできていたので、今年もお会いできると思っていました。強く・やわらかく、どちらの長谷川さんも素敵でした。ご冥福をお祈りいたします。

 

Jim

長谷川氏と初めて会ったのは福岡LOVE ACT FUKUOKA(現:HACO)の設立に尽力して頂いた時。
まだ学生だった私は、長谷川さんに初めてお会いした時、「すんごいキャラの濃いおじさんが居るな。。」と少々恐怖でした。

後に、通っていた芸術系学校の卒業展示会の会場で、「じんちゃーん!」と会場に響く声。
振り返ると長谷川氏が手を振っていた。
わざわざ私の卒業展示会を見にきたとのこと。
そして第一声が、「闇が深いわねw でも、私が見初めた男ねー。この中で1番良いわ。」と言ってくれたこと、今でも鮮明に覚えています。

その後、東京に転勤してからはaktaにお世話になり、度々長谷川氏にも会う様になり、おうちにご飯行ったり、イベントで一緒になったり楽しかったな。また貴重な話もたくさん聞かせていただきました。

体調を壊してからは、会う機会も減り、aktaでお会いする位でしたが、会えば元気な笑顔と冗談が聞けて楽しかったです。

訃報を聞いた時、1週間前から何故か長谷川氏の事を考えていた。きっと虫の知らせだったのかなと。

ご冥福を。
冥界でも楽しいパーティを、ピンヒールで。

 

東ちづる

長谷川さん、あなたは、誰も排除しない「まぜこぜの社会」をめざすGet in touchにも、私にも、なくてはならい方でした。映画「私はワタシ over the rainbow」では、2年間の密着と、タイトル決めなどのミーティングや数回の試写会、上映後トークなどのたびに、「こき使うわね〜」と言いながらニコニコでした。舞台「月夜のからくりハウス」では、「20年ぶりに女装をさせられるなんてねえ。化け物と呼んで!こうなりゃ地獄の果てまでちづるさんに付き合うわよ!」と私を睨んだ眼が、いたずらっ子のようにピカリと輝いていたのを覚えています。どんなイベントにも神出鬼没で、「わあー!!」とハグをしましたよね。インテリで無邪気で、優しくて、私たちは皆んな、あなたの魅力にコロリとやられてしまっていました。「コロ助マンボーが終わったら、ご飯に行きましょう」「おもしろいこと企みましょう」とたくさん約束したのに、こんなサヨナラは想定外です。まだまだやること満載でした。こうなったら、とことん見守っていてくださいね。長谷川さんならどう言うかなあと、頼りにさせてもらいますので。

 

かんばらけんた

僕の活躍を楽しみにしてくれていて、イベントのお客さんで来てくださったり、SNSのコメントがいつも嬉しかったです。引き続き頑張りますので観てて下さい!

 

よしひろまさみち

私がバディ編集部に勤めていた23歳時。初めてエリア特集の担当になり、池袋のゲイバー史に詳しい方を探していた際、平井社長から「ブロンコじいさん(BIG GYMの社長)のところのハセコ(長谷川さん)がいいんじゃな〜い?」と紹介をされました。特集扉で池袋の夜についてご寄稿いただけるよう、当時赤坂見附にあったGプロジェクトへうかがったのが、初めての長谷川さんとの対面でした。バディの創刊編集長、G-menの編集長を務められていた長谷川さんですから、こちらはド緊張。現れた長谷川さんは開口一番「あら、バディの新人さん。テラ出版は大変でしょ?」と労をねぎらってくださったことを忘れられません。その場で依頼を快諾いただき、70〜80年代の池袋を想起させる素晴らしい原稿が届きました。発売後、お電話をちょうだいした際、「すごくいい特集だったね。でも、僕の原稿、段落の字下げがとれちゃってたわよ(笑)」とやさしく注意くださったのも忘れられない思い出です。
その後、私はいくつかの出版社を経てフリーライターとしての仕事を始め、縁あってG-men編集部(そのころには荒木町に移転)にご挨拶にうかがいました。そのとき、「あ、テラにいたよしひろくんね。フリーになったんだったら、うちの仕事もよろしく」と。もちろん当時のG-men編集スタッフの皆さんにも面通しをした上ですが、ライターとして関わらせていただくことに。久しぶりのゲイメディアでしたが、編集部の皆さんのご理解もあって、G-men本誌だけでなくSM-Zなど型破りな企画を多数参加させていただきました。
勢いだけで仕事をこなしていた未熟な私でしたが、長谷川さんはいつも大事なところだけ口を出す、理想的なボス。私が萎縮することなく、当時の武器だったノリと勢いと若さを大事にしてくださったんでしょう。本当に感謝してます。
私が30代後半から映画ライターとして仕事を絞っていくと、次第にゲイコミュニティとのつながりは薄くなっていきましたが、イベントなどで長谷川さんにお会いすると「ねえ、ご飯いこうよ」と誘ったり誘われたり。そのたびに、仕事上ではうかがうことがなかったお話をうかがえるのが楽しみでした。そのときによく言われたのは「よしひろくんのように、ゲイメディアでキャリアを始めて、一般のメディアで活躍しているのは、若い子たちにとってとてもいい刺激になる。いろいろ大変なこともあるだろうけど、楽しんでる姿を見せなさいよ」。ごもっともだな、とかみしめておりますよ、今年50を迎える私。
ご入院が長引いて最悪の事態を考えたときも、脚を切断することを決めたときも、車椅子で爆走する元気を取り戻されたときも、いずれのときも笑顔でいらしたことを忘れません。
コロナ禍が始まってから今年1月まで、2ヶ月に一度くらい、メッセンジャーのやりとりをしていましたが、最後の最後がこんなご時世ゆえに直接対面することが叶わず、ご飯の約束もできぬままなのが口惜しいです。しばし待っててくださいね。あたしもじきそちらにうかがいますから。そのときは、今までで一番デカいパーティをしましょう。

 

田亀源五郎

思い出がいろいろあって語り尽くせませんが、長谷川さんとの出会いは間違いなく、自分の人生にとってとても大きな意味を持つ出来事でした。色々とありがとう、またいつか会いましょう!

 

Junya

お母さん、お疲れさま。ゆっくり休んでね。
Pinkbear Cafe やCross border cafeやいろんなイベント一緒にできて楽しかったよ。
またね〜

ジャンジ

ジャンジわかるでしょ、それはね。。って
今にも声が聞こえそう。
沢山のことおしえてもらって、色んな人とつないでいただいた。

2022年3月7日未明、長谷川博史さん(ピンクベア)が69歳で永眠した。
長谷川さんはいつも死を覚悟していた。特にこの1年。
何回か自分で救急車を呼んで生き延びてきた。
ほんとにがんばって、がんばって、がんばったと思う。
悲しいけど、おつかれ様!って心から言いたい。
流石、ピンクベア!
幕引きは、自分で救急車を呼んで、
救急隊員の手の中で。
望み通り、一気に逝ってしまった。

出会ったのは1996年頃の京都METROの 「club LUV+」。
私はパファーマンスショーをやって、長谷川さんはゲイマガジンの編集長として、またHIV陽性者としてスペシャルトークを披露していた。
帰りに東京から来ていたことがわかり、2人で京都駅までタクシーで向かった。
大きな声でゲイ雑誌の事やエロ話をしていたら、運転手さんがふいに「僕もゲイです。。」って言い出して盛り上がり、降り際に「実は息子もそうなんですよ。。」って。機会があったら新宿二丁目で再会ね!ってみんなで笑った。

1997年、私が二丁目で交歓のparty「ジューシィー!」をはじめた。
長谷川さんはある日「僕は髭女装をする」と言いだして、チョーくんにメイクをしてもらっていた。気がついたら、ピンクベアがレギュラーみたいになっていて、
ナース姿でHIVの治療薬の名前を並べたコーラスショーをやったり、薬をいっぱいに入れたビールジョッキを手にHIV陽性者の生活の話しをしたりしていた。
高円寺きのこで「ジューシィー!アラ・モード」を企画して誘ったときに「僕も詩を読むことにしたの」と言いはじめて、急いで書いたという作品が名作「熊夫人の告白」でした。
楽屋では、「NO GAP 」や「JaNP+」の立ち上げのこと、神戸の国際エイズ会議のことや新しい雑誌を作る話しなど、時にインシュリンをお腹に打ちながら、毎回新しい話題をぶちこんできた。

私がaktaに関わるようになって 「ジューシィー!」は定期開催できなくなったけど、長谷川さんとは、いろんなフェーズでおつきあいをしてきた。
アーティストとして、
HIVの活動で、それぞれの団体の代表として、
DQSH東京のプロジェクトメンバーとして、
そして、新しい家族 として☆

倒れる前日はアーカイブ動画の取材撮影に応じて、タックさんと沢山お話しをして、いつものようにみんなと別れたと聞いた。
前日静岡では主演のドキュメンタリー映画「私はワタシ」が久しぶりに上映されていた。
そして今も、世界のあちこちを騒がせている。笑
天晴れ、長谷川博史さん!
ピンクベア!
どうもありがとう。

愛してるよ!
どうぞ安らかに
2022.0313
ジャンジ

※写真は「ジューシィー!」より 撮影:島崎ロディー

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